一年の計
田中恭平

 一年の計は元旦にあり、といわれるが、不精なじぶんは今年の目標を七つにしぼった。
これについて、筆をすすめながら、子細に検討して、まとめたいと考えた。

〇仕事を欠勤しない

 私は肉体労働者である。去年の年末、私は原因不明の胃痛を患ってしまった。
人間のできていない上司をもっている、奥歯が損なわれているためによく物を噛まず食べる、もともと虚弱体質である、いろいろ原因がないわけではない、むしろあり過ぎるくらいで、それぞれの総合的なものだろうとおもう。
 芥川龍之介に「一塊の土」という短篇小説がある。夫を亡くして、懸命に百姓仕事に励む、励みすぎて、姑との行き違いをおこす女性の話である、と書けば語弊があるか、ともかく労働第一、芸術第二、と私は決めた。私にとって文学とは慰み、に過ぎないから。と書いて、どれほど救われてきたか。

〇本は要らない

 持っている本が多すぎる、と考えた。ここで未読なものを含めてじぶんの持つ本を十冊程度に絞ろう、と年末から計画、断捨離を行った。
 やはり古典の強さがわかった。例えば、ジャズ漫画、「ブルージャイアント・エクスプローラー」が四冊あるが、これはジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」一冊で済む、という風に。十冊の本があれば、それぞれを十回読めば、百冊分読んだことになる。そして十回読んで済まない本というのはほんとうの本で、飽きる本は、そもそも不要なのであった。
生きづらさの解消、という課題にはサルトルの「存在と無」全三巻があればこと足りる。

〇日記を書く

 これは、自由律俳句を日に十句や、ツイッターでこと足りるかも知れないが、ポジティブなことを書いていこうと考えている。日記も文学だと考えると億劫になってしまう。事実のふりかえり、ができればそれでいい。

〇妻を愛すること

 子細、省く。

〇お金を愛すること

 お金に魂を売る、という言葉があるが、そうなってしまった人を沢山みてきた。
しかしそうなると、お金がすべて、人生そんなもん、という一種虚無主義に近いものに陥る。
私は人生に感動を得たい。それにしたって、今まで無意識お金を汚いものであると、勘違いして認識してきたか。お金は「便利な物質」である。これを、潜在意識から好むこと。


〇聖書を読むこと

 日本人の宗教IQというものが、どれほどのものか、ある方はかなり低いと書いていたが、近代社会或いは現代社会を考えたときに、教養として聖書を読んでいるかどうかは大きいと考えている。
例えば西洋の哲学を考えたときに、一神教の神の「存在」抜きにそれは語られていない場合も多く、聖書を無視しては読むことが不可能であったりする。詩だって例外でなく、自身の書く神が、ヤハウェなのか、又は神道の神なのか、じぶんでこさえた神なのか、これをごっちゃにしてはならぬ。つまりは、神道の神を描こうとするときに、それに対抗し世界語くらいになっているヤハウェを知らずして、(神道の、又じぶんでこさえた)神は書けない。
 私の家は仏教であるが、大正時代に、聖書が日本に普及してゆく過程で、これでは仏教がキリスト教にとって代わるという畏怖から、その反発として、近代・現代仏教はより理路整然とした形で、教義の掘り起こし、再構築が行われた側面がある。真宗、歎異抄の再評価などはその例である。
 しかしその過程で、純化する代わりに、曖昧模糊とした部分は未だ棚にしまわれたままであったりする。これも出発になる。
 又、私は通じて、二回しか読んでいないが、聖書は、映画化されるほど優れたエンターテインメントである。勿論、こんなことを書けるのは、私がキリスト者でなく門外漢であるからだが、常識を超えてゆく、風穴を開けてゆくエピソードばかりである。歌人・塚本邦雄は「聖書は読みものとして面白い」と言った。
 どうせ人生で一度ならずなんどもぶち当たる書物なのだから、今年の内にその予習くらいはしておいて損はないだろう。

〇足腰を鍛えること

 足腰の不調は心の不調につながる。又、心を鍛えたいのならば足腰を鍛えること。これは東洋思想、東洋医学のエッセンスを大雑把に汲み取った文言だ。
 座禅も、身体的に考えれば、床に尻を圧しつけて下半身を鍛える側面がある。


 


散文(批評随筆小説等) 一年の計 Copyright 田中恭平 2022-01-02 10:51:55
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