「意味」と「意味感」
朧月夜
普段はたぶん、その違いをあまり気にかけることなく、私たちは物事に対して「意味がある」とか「意味が分からない」という言葉を使うのだろうと思います。「意味」というものは、もちろん物事がどんな事柄を表しているかを示す「その内容」のことなのですが、時折「意義」と同じように使われることがある。
何らかのものにとって、あるいは自分にとって益があることを、「意味がある」と言ったりします。その時、その行為や出来事には、もちろん意味が備わっているだけでなく、有益な「意義」を持っているかのように、私たちは感じる。「それをすることには意味がある」といった考え方をする時、実際には私たちは行為についての「意義」を心の中で感じ取っています。
でも、行為や事物の意味を正確には把握していない、つかみきっていないこともままあり、そういった場合には、私たちは「意味感」に捉われているのだと言うことができます。なんとなく「意味が」つまりは「意義が」分かったように感じている状態。これは、言い換えれば一種の高揚感であって、自分が物事の意味および意義が分かっているように感じられることに対する、自信や達成感だと言えます。
言葉だけの高揚感、つまりは意味感が失われた時、人は自分の行動の指針を見失ってしまいがちになります。単に惰性や慣例的に続けられてきたことにたいして、上辺だけの意味によるネーミングがなされている場合もあるからです。その時に「意味」として挙げられていることは、本当に物事の真意や真実は表していなかった、ということになります。
それでは「意味がある」という言葉は、なぜ「意義がある」ことと同じように使われるのか。それは、意味は、私たちに様々な価値をもたらすものでもあるからでしょう。
「意味」は、物事の内容をありのままに示したものであると同時に、複数の内容や価値観を取りまとめたシンボルである場合もあります。一つの意味から、何らかの派生的な価値や、別の意味が複数表れてくることもあります。「意味」を「秩序」の一つだと思えば、そこにはエネルギーもあるのでしょう。
秩序は、熱を生み出しながら無秩序へと変わっていく、「高まり」の状態にあります。実際に、PCなどに情報を与えると、そこからは(物理的な)熱が生み出されるという測定結果もあるらしいです。
そしてまた、意味は二つの要素、あるいは複数の要素を結び付けるような役割をも果たしています。
「ハサミは物を切るための道具である」という、「ハサミ」の意味がある時、そこには「ハサミ」と、それとは別の物、たとえば紙や糸やビニールなどを結び付ける、つなぎ目のようなものが存在します。一つの意味によって、一つの事物から複数の選択肢や対象が現れてくる。そういったことからも、物事の「意味」は、私たちに多くの可能性を感じさせ、与えてくれる。私たちが、物事や事物や人などに「意味」を求める理由は、そういった所にもあります。
もし、自分の中で可能性や行動や思考の選択肢を広げるような、「意味」をつかみたいのであれば、物事の内容というものを、ありのままに認識する必要があります。ある物や事と、別の物や事がどのようにつながっているのか、どういう仕組みでそれらの物事が関係を持っているのか、それを知るためには、本当にそれら二つのものがつながり得るのか、ということを確かめてみる必要があります。例えば、「ハサミ」は物を切ることができるのか、という機能や役割を検証するようなやり方で。
それとともに、「何」であれば切ることができるのか、という「対象を吟味し分析する方法」も必要になってきます。ハサミの例であれば物事は単純ですが、物事の意味を知るという上では、対象は人であっても、愛情や正義といった価値観であっても、それらをもっと大きく包含する「モラル」や「倫理」といったものであっても、やり方は同じです。
インターネットが登場した初期の頃に、私の周りでは真実を知りたいと言ったり、思ったりする人が多くいましたが、真実は、必ずしも幸福なものではありません。「真実」という言葉も、一種の「意味感」をもたらす言葉のうちの一つです。
もし、物事の「意味」を知りたいと考えている人がいるとしたら、その人には「意味」による事物のつながりや関わり方を武器に出来る──あくまでも、自分の中で行動や思考を選ぶ時の選択肢の幅を広げられる──そういうものとして物事の「意味」というものをとらえてほしいな、と個人的には思っています。
物事の意味、事物と事物のつながり方、どのような仕組みでなぜつながっているのか、ということが分かれば、価値観や環境や時代が移り変わっても、物事の意義や価値について、同じように自分の中で判断することができるからです。
また、より多くの意味を知ることで、類推がしやすくなるということも、「物事の意味を知る」という行為の持っている価値の一つです。類推をする能力があれば、未知の出来事や事物にも対処がしやすくなります。そして、類推とは、人の想像力、理解力を最大限に利用した、活用した行為であるのです。