ポピュラー・ミュージックは文学たり得るのか?
朧月夜
奇妙な縁があって、X JAPANやミレーヌ・ファルメール、マリリン・マンソンらの音楽を聴きなおしてみています。そして思うのは、彼らの創作する作品というものは、今ではすでに過去の再構築だけを目指しているということ。現代で見つけやすい一流の芸術と言えば、彼らが作り出しているポピュラー・ミュージックや映画、テレビCMといった作品でしょう。しかし、それらの作品はマニエリズムとしての一流であって、先駆性を持った真の一流だと言うことには難しいものがあります。
後から、彼らを追いかけているアーティストはいくらでもいるでしょう。そして、そうしたアーティストの追いつけないものを、彼らは持っているでしょう。それを求める者に対して、過去の音楽を再度作り直そうとする彼らの作品は、必然的にアンニュイの調子を帯びてくることになります。しかし、それは実際にはアンニュイですらなく、明るいデカダンスとでも呼べるものであるような気がしています。
ポピュラー・ミュージックの世界には、すでに文学の意匠や技法が流れ込んでいますし、西洋であれば、その皮切りになったのは言うまでもなくボードレールです。しかし、ボードレールが単にデカダンスに溺れていたと考えるならば、それは間違いであると言えます。ボードレール自身は、よくある芸術家と同じように、登場する時期が単に早すぎたのです。彼が表現した退廃や諦観は、世代への諦観であって、自分自身への諦観ではないということになります。
私自身の経験について書くと、20年近く前の一時期、人生や文学に対する絶望のなかで聴いていたものは、スピッツの「ホタル」でした。そして、絶望というものは、全く答えなどではないということにすぐに気づきました。それは、考えようによっては皮肉なことなのかもしれません。自分自身の悩みを、そして自分自身を終わらせようとしても、それは決して終わらないのです。
立ち止まることも、諦観することも、一人の人間にとって何らかの答えにはなり得ません。そうした感情は、エンターテイナーが気分として与えるものであって、全く文学にはなり得ないのです。
文学というものは、何もないところに何かを作り出さなければいけない、そういったものだと言えます。近代までの文学が表現していたような、「絶望」や「悲哀」といった伝統を、私自身は文学の本質として信じ切ることは出来ませんでした。それが正しいのか、間違っているのか、それは未だに分かりません。ただ、時流にただ流されることは文学ではないし、しかも時流に流されなければ文学は文学たり得ないものでもあります。この矛盾と相克こそが、文学そのものであり、その意義なのでしょう。
「悲しみ」は文学の目標ではない。「希望」もまた文学の目標ではない。文学の目標というのは、それを越えたところにあります。「悲しみ」と「希望」とは、常に遠すぎる距離を保って連結しているものだからです。そして、人というものは、全ての感情や意志や動機というものを、常に同時に抱えてながら生きている存在だと言えます。
こうした文学の本質において、思想や哲学、システム論、世界観、そういったものを表現したところで、文学にとってはさしたる価値をもたらすものではありません。文学というのは、人間という極小のものと、世界という極大のものを表現するものだと言えます(人の精神が触れ得る極小のものとして、人間自体という存在があり、極大のものとして、世界という存在があります)。
そして、世界には最小のものと最大のものとがともに含まれている。世界というものは、常に人間が目にする世界としてのみ存在することが出来ます。人の見る世界というものは、世界そのものが自己主張をする世界のことではないのです。
今、自分の書いた作品(と呼び得るものであれば)を読み、確かめてみる時、私自身はスマートフォンを使用しなければ、十分にその価値や意味合いを確かめることが出来ないようになってきています。そして、過去の作品を読むときには、スマートフォンを利用するのではなく、書籍自体に当たらなければ、その意味も感覚も確かめることが出来ません。
そこには、やはり何かがあるのでしょう。文学もまた、メディアによって左右され、そこから作り出されるものであり、価値観や意味だけを取り出せることが、文学の本質的な意義ではないのです。
「新しいものなど、真には存在し得ない」
「真に新しくなければ、芸術ではない」
そういった矛盾する考え方も、様々な人たちによって様々に語られることがあります。
しかし、時代より先んじることなく、懐古趣味に陥るのでもなく、時代と常に同時にあること、そこにしか真の文学というものは成立し得ないような気がしています。ポピュラー・ミュージックは、すでに文学の色彩を十分に帯びています。もしこの時代に、ポピュラー・ミュージックのミュージシャンたちの作品が文学たり得るとしたら、それは時代に遅れず、時代に先んじることもなく、正しく彼らや彼女らの現在として作品が作られている場合に限られるのではないか、そうも思っています。