零歳児とともに
葉leaf

平凡さは記念碑として過去に埋没し、今や非凡さが林立する群雄割拠の時代だ。そのなかでルネサンス、かつての平凡さを生きる人は今やとりわけ非凡な人であり、人生を高速で泳ぎ渡らなければ自らを生み出せない。零歳児が泣いている。妻が駆け寄り抱っこする。零歳児が泣いている。妻が食事中なので私が駆け寄り抱っこする。育児は水平的には行為の連鎖で疲労へと行きつくが、折々の深さがあり、それはケアの深さであったり零歳児の発達の深さであったりする。育児の垂直的な深さは喜びへと行きつき、疲労と幸福はごく当然に両立する。生む性とは女性だけではない。男性もまた生む性であり、妊娠や出産その後の育児においても夫婦はともに生む身体を分かち合っている。出血が止まらないと妻が不安げな声を上げた日もあった。妻が風邪をひいて土砂降りの雨の中濡れながら帰った日もあった。零歳児よ、お前がいまそこに在るということについておびただしい物語が接続している。間歇的にやってくる「俺は幸せだ」というみなぎりについて何も語ろうとは思わない。むしろそのみなぎりについては語るべきことが何一つない。帰宅すると妻が今日あった零歳児のことについて楽しそうに話す、それを私も楽しく聞く、それだけのために日々を生きてもいい。こうして実践そのものが哲学である日々は今日も続いていく。


自由詩 零歳児とともに Copyright 葉leaf 2021-10-16 06:01:45
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