あるいは晩夏の目醒め
夢は終った。その疲労を脚韻ににじませて、僕は森の中を歩いている。森は僕の森。基本的な掟に支配された原始の森。森の秩序のすべてをとりしきる僕のため、鳥たちは譜面通りに歌い、樹々は指定された地表から等間隔で伸びている。僕はこの森の王。疲れた時はいつも、森は僕を優しく包んでくれる。柔らかな木漏れ日。夏の終りに残る暑さを柔らげる涼しい影。優しく僕のために存在する森。今日も僕は疲労を足どりに表して、森の中に逃げ帰って来た。木の切り株に腰をおろして休んでいると、すぐそばの木の幹で蝉が鳴き始めた。予定調和のコーラス。心地良い、眠りの中に落ちてしまいそうな一定のリズム。と、突然、一羽の雉子が僕の目の前で飛び立ち、一瞬にして眠りは後方に退いた。立ち上がり、その軌跡を目で追うと、雉子は薄暗い森から明るい空の上へと舞い上がり、森の上空を何度も繰り返し旋回しつづけた。あの雉子は草原から森へ偵察に来たのだ。僕は悪態をつきたかったが、雉子が飛び立った羽ばたきのあまりにも大きな音に耳を突き破られて、ただぼんやりと空を見上げていた。一羽の雉子によって起こった森の異変。森の平和はかき乱され、目の前を早まった枯葉が落ちた。そして感じた恐怖。枯葉はことごとく血に染まっている。足下の腐葉土の堆積にも僕の血が染みこんでいる。森を支配しているのは僕ではなかった。僕は森に支配されつつある。僕の血を養分として伸びる樹木たち。僕の夢を食って飛ぶ虫たち。僕は走った。雉子の後を追って、森の中を走り出した。夏が終ろうとしているこの時、僕は森の基本的な掟をまざまざと思い知らされたのだった。
夢は終った。その場所から歩き始めなければならない僕の、宿命の脚韻。
*
夢は終った。その疲労を脚韻に感じる余裕もなく、僕は森の中を走っている。恐怖に駆られ、僕であるこの森から逃げ出すために。雉子はどこに行った。僕を呼びに来たあの雉子はいったいどこに行ったのか。虫が、何匹もの虫が走る僕を妨害しようとしてまとわりつく。いまになれば僕は、彼等が明らかな悪意を持っているのがはっきりとわかる。やめてくれ。僕の僕からの逃走を邪魔しないでくれ。鳥が、たった一羽の鳥が走りながら見上げる僕の眼の中に映る。つい先程までの僕には、彼の飛行に憧れる資格などまるでなかった。だがいまの僕には、走りながら見上げる眼の中に飛ぶ彼の姿を、記憶の底に焼きつける義務がある。そして僕は走る。森の出口を求めてひたすら走りつづける。僕の体をよぎるのは風。背後に澱んだままの森の古い空気を、その壁を突き崩すために吹くささやかな革命の風。枯葉を舞い上がらせ、樹々の枝をふるわせて、僕の走る速度に伴奏をつける、夏の終りの新しい風。
夢は終った。その疲労さえも快楽であると知ることが、僕の本当の意味での次の一歩。
*
夢は終った。その疲労で脚韻を踏みながら、僕はただ走る。かつては僕だった森、いまでは僕を支配しつつある森から脱出するために、出口を求めてただ走る。森の中の道ならぬ道を走る。僕が走る。そして道が出来る。僕が走る。そして風が起こる。それでもまだ何とか僕をひき止めようと、遅れた蝉が鳴く。勝手に鳴くがいい。夏はもう終る。季節は幕が上がるように速やかに変る。この夏を惜しむ歌なのか、次の夏を待つ歌なのかは知らぬが、僕は安易な憂愁につきあっている暇はない。ただ走るのだ。出口を求めて、夏の終りを、秋の訪れを、季節の変化を信じて、次の僕を、いまの僕以上に信じて、広い場所に出るのだ。鳥よ、飛べ。枯葉よ、落ちろ。僕は君たちの速度よりももっと速く走ろうと欲する。肉の中の血が先祖の記憶を顧みてはうちふるえている。走る走る、僕が。吹く吹く、風が。光だ。出口だ。柔らかい、夏の終りの光が、目の前から射しこむ。歌だ。光だ。光。出口。光る明日。光る。
母さん!
僕は
森の外に出た。
ついに
僕は僕をふりきった。
目の前に 橋がある
僕がたったいま駆けぬけてきた森の
樹を切って造った 短い橋
橋の下には優しいせせらぎの
川が いまは静かに流れている
橋の向こうには広々とした
草原と その中にたたずむ雉子が一羽
たしかに 夢は終った
脚韻ににじんだその疲労は
消えないかもしれない
だが 夢はふたたびみたび生まれる
そのよろこびを脚韻に染みこませて
歩くことが きっと出来る
ただぼんやりの夢ではなく
明らかなしたたかな 計画を
たしかに歩くため
僕はもう森をふり返らない
僕だった森をふり返らない
夏は終った
新しい季節を見すえて
草原を目指して
僕は 橋を渡る