小学生日記「アナタに伝えたくないこと」
瓜田タカヤ

青森の三月 あなたへ伝えたくない事

小学校四年

母がまだ居た頃なので多分小学校4年生だろう。
僕は母に連れられて、
青森市の新町という繁華街へ買い物へ行った帰り映画をみた。

母は大体その時、公開されている中でも話題作を選び、かつ僕が
寝ない映画を選ぶのだった。
覚えているのは「スーパーマン」と「スターウォーズ」だ。
時々登場人物同士の会話シーンが長く続くと、そのあらましを
そっと教えてくれた。

1シーンだけ記憶に残っている。それは「スターウォーズ」で
ルークスカイウォーカーとレイア姫が巨大な廃棄シェルターに落とされ
両端の壁が少しずつ迫ってくるシーンだ。ルークは何とかしようと廃棄物内のパイプ
などを拾って、壁の閉動を止めようとするのだが、上手く行かないのだ。

何とかしなければ、ルークとレイア姫は両側から迫る巨大な壁に圧殺されてしまうの
だ。僕はそれをドキドキしながら見ていた記憶はあるのだが、どうやって助かったの
かは覚えていない。

去年公開されたエピソード1は、ジョージルーカスの壮大なるスペースオナニー
を見せられている気がして、つまらなかった。
特に巨大魚みたいなのから逃げるシーンとか眠くなった。
ルーカスはハワードザダッグ(リートンプソン好き)だけ作れ。

もう一つの母と壁圧殺話しがあって、
それは岩手のマインランド尾去沢へ言ったときのことだ。
そこは昭和53年に閉山した鉱山で
全長1700メートルの観光鉱道を、歩き回るという鍾乳洞ウォーキング観光地だ。
夏のさなかに行ったので、鉱山内に入った途端とても冷たくて気持ちよかったのを
覚えている。濡れた岩壁、薄明るい暗闇を、母と歩いた。

暗闇は子供にとって、恐怖だった。
それは何かが潜むであろうと言う自己妄想の気配に不安していたのだろう。

いくらか進んで行くと、両壁が極端に狭くなっている通りがあった。
僕はまるで、ショッカーの秘密基地のようだと思い、恐怖していた。
その壁を通った瞬間何かのセンサーで感知され、
両壁は重く鳴り響き僕たちを圧殺する音色が闇に響く妄想にかられた。
僕は、暗黒と吹雪の津軽平野を歩く母と子のような悲劇的快楽を感じていた。

その時、
冷気を持ち多量の水分を含んだ石壁をみつめて母が
「迫ってきそうね。」と「普通の表情」で喋った。
僕は安心して「ショッカーの基地みたいだ」と言った。
子は恐怖の薄胆を母性に求めたのだ。
僕は壁が迫ってきて死ぬことに、少しの恐怖感も抱かなくなった。
なぜなら母が、壁に圧殺されそうだという事柄を喋っているのに、
恐怖の表情を少しも見せていなかったからだ。
僕は母の日常と変わらぬ笑顔に、安心した。
僕は、母はこの場所が安全であることを知っているのだろうと思い、また
何かが起こったとしても、彼女は僕のことを助けてくれるのだろうと思った。

それは
「僕の愛する人」に守られている強さではない。
「僕が愛されている人」に守られている強さだ。
常に裏切るのは自己の愛だ。
他者の愛が絶対的なものならば、それは裏切らない。

1994年にコスモスというバンドでCDを出した。
その中の1曲に僕が作詞した「武術の風」と言う詩がある。

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「武術の風」
青森の3月は桜が咲くにはまだ早く
天国にいるお袋はまだ死んでいない
君は見窄らしい贅肉を抱き留め
俺のペニスを口に含み「あなたの匂いが好きなの」と言った。

今日もどこかで武術の風が吹いてる
空想が俺に黒い羽をまとわせるから
今日もどこかで武術の風が吹いてる
流れる刃物達は僕の身体を鋭角にすり抜け続く
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題名の「武術の風」とはこんな意味でつけた。
風が吹くことが自然の摂理であるかのように
理不尽な暴力が当然のように世の中に蔓延していくと言う意味だ。
暴力を「武術」と歌ったのは、まるでその暴力には何らかの
正しき試みがあるかのように、振る舞われるからだ。

この詩のテーマは「両方を受け入れて生きる」である。
「武術の風」さえも抱き留めて、
僕と君は愛しい生活をつなげて行かなくちゃならないんだ。と言う事だ。

この詩での暴力とは「絶対的な負」の象徴として使っている。
それは、筋肉の暴力でもあり、また自分の正義のために行われるまたは
作り出される、他者への不自然な魂の強制ルールだったりもする。
(それが絶対的にダメだとは思っていないけど)

この詩で僕は、恐怖(不安感)からの逸脱は
それを内包し、愛する者(物)に愛される事が唯一
恐怖感を逸脱できる力であると言う事をシニカルに歌っている。
・・つもりだ!

それはどういうことかというと
「母が、壁に圧殺されそうだという事柄を喋っているのに、
 恐怖の表情を少しも見せていなかったから安心したこと」
と同じ事を未だに歌っていると言うことだ。イヤーン!

しかし母性の絶対的愛は偽善であったのだ。

なぜなら小学校4年生の参観日が終わってから、母は蒸発したからだ。

だからこの「武術の風」という詩は、愛情の絶対性を信じたがる僕の
ルークスカイウォーカーが、使ってみて役に立たなかった
廃棄物のパイプのような物なのかもしれない。

しかしこの詩の最後はこう終わる

「僕は狭い部屋で膝を抱え
 バカげた妄想の一つを思い描くのだった。」

そう、結局この詩は何も動き出さない男の妄想であったという
安易なオチにしてしまっているのだ。
もしかして僕は無意識にどこかでこの詩に嫌悪感を感じたのだろうか。
なぜなら母性の喪失をフィルターにした主人公(自己)が
「日常生活の恐怖感内(異常な社会であって欲しいと言う願望)」
を前向きに生きだしてしまうという事は、無意識に
蒸発した母の事を認めてしまっているような感覚に襲われるからだ。

だから僕は「バカげた妄想であって欲しい」事を望んだのかもしれない。

「僕の愛する人」に守られている強さではない。
「僕が愛されている人(母)」に守られている強さだ。
常に裏切るのは自己の愛だ。
他者の愛が絶対的なものならば、それは裏切らない。

PS

見えない壁が僕を圧殺しようとしたとしても
その不安を取り去ってくれる人は、もう居ないと思っていたが、
不愉快なことに、自分の子供がそうだった。


散文(批評随筆小説等) 小学生日記「アナタに伝えたくないこと」 Copyright 瓜田タカヤ 2005-04-23 04:56:20
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