詩の日めくり 二〇一六年二月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一六年二月一日 「アルファベットの形しかないんかいな、笑。」


 何日かまえに、FBフレンドの映像を見て、いつも画像で、ストップ画像だから、ああ、素朴な感じでいいなあと思っていたら、映像では、くねくねして、ふにゃふにゃで、なんじゃー、って思った。ジムで身体を鍛えているのだろうけれど、なんだろ、しっかりしてるんだろうけど、くねくね、ふにゃふにゃ。

 Aの形のひと。Bの形のひと。Cの形のひと。Dの形のひと。Eの形のひと。Fの形のひと。Gの形のひと。Hの形のひと。Iの形のひと。Jの形のひと。Kの形のひと。Lの形のひと。Mの形のひと。Nの形のひと。Oの形のひと。Pの形のひと。Qの形のひと。Rの形のひと。Sの形のひと。Tの形のひと。Uの形のひと。Vの形のひと。Wの形のひと。Xの形のひと。Zの形のひと。

 寝るまえの読書は、チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻。一流の作家の幻視能力って、すごいなあって思わせられる。


二〇一六年二月二日 「お兄ちゃんのパソコンであ~そぼっと、フフン。」


オレ、178センチ、86キロ、21歳のボーズです。
現役体育大学生で、ラグビーやってます。

──って、書いておけばいいわよね。
──あたしが妹の女子高生だって、わかんないわよね。

好みの下着は、グレーのボクサーパンツみたいなブリーフです。
ぽっちゃりしたオヤジさんがタイプです。
未経験なオレですが、どうぞよろしくお願いします。

──お兄ちゃんのそのまんまの条件で
──どんな人たちが連絡してくるのか、楽しみだわ。


二〇一六年二月三日 「ジョナサンと宇宙クジラ」


 ぼくのライフワークのうちの1つ、『全行引用による自伝詩』を試みに少し書こうとしたのだが、2つめの引用で、すでにしてあまりにも美し過ぎて、手がとまってしまった。この作品以上の作品を、ぼくが書くことはもうできないような気がする。詩は形式であり、方法であり、何よりも行為である。

 肘関節の痛みが左の肩にのぼって、左のこめかみにまで電気的な痺れを感じるようになってしまった。身体はますますボロボロに、感覚はますます繊細になっていく感じだ。とても人間らしい、すばらしい老化力である。まっとうな老い方をしているような気がする。ワーキングプアの老詩人にも似つかわしい。

 そだ。『全行引用による自伝詩』も『13の過去(仮題)』も、章立てはなく、区切りのないもので、ぼくが死んで書かなくなった時点で途中終了する形で詩集として出しつづけていくつもりだ。『13の過去(仮題)』は、●詩で、改行もいっさいしないで、えんえんと書きつづけていくつもりだ。

 塾の帰りにブックオフに。半年ほどまえに売りとばしたC・L・アンダースンの『エラスムスの迷宮』を買い直した。なにしてるんやろ。それと、カヴァーと大きさの違うロバート・F・ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』と、トバイアス・S・バッケルの『クリスタル・レイン』を買った。みな、108円。

 カヴァーを眺めて楽しむためだけに買ったような気がする3冊であるが、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』は、文字が大きくなって読みやすくなってるから、読むかも。『エラスムスの迷宮』は読んだから、読まないかも。『クリスタル・レイン』は読むと思う。いつか。


二〇一六年二月四日 「こんなん食べたい。」


指を切り落としたリンゴ。首を吊ったオレンジ。複雑骨折したバナナ。


二〇一六年二月五日 「TOMMY」


『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻、いまようやく400ページ目。あしたには下巻に突入したい。

 寝るまえに、ロック・オペラ『TOMMY』を見た。『TOMMY』、音がCDとぜんぜん違う。ロック・オペラ『TOMMY』って、CDのほうがずっと音がいいんだけど、ちゃらちゃらしたDVD版の音のほうもいいね。アメリカでは、国がすべてのウェブサイトを記録として残すって話だったけど、日本はどうなんだろね。 個人的な手帳、手記ってのはものすごく重要な歴史資料なんだけども、いまや、それがケータイ本体やWebサービスに行っちゃって。TOMMYっていうと、ゲイの男の子たちのあいだでも人気のブランドだったと思うけど、そのTOMMYのTシャツをものすごくたくさん持ってる子のブログがあって、そこにある画像を見てて思ったんだけど、等身大の着せ替え人形用の服みたいって。あれ、逆かな。TOMMYっていうと、ピンボールの魔術師の役をどうしようって相談したロッド・スチュアートを裏切ったエルトン・ジョンのことを思い出すけれど、裏切りって、けっこう好きだったりする。裏切るのも裏切られるのも。むごい裏切り方されたときって、「ひゃ~、人生の色が濃くなった。」って思えるからね。


二〇一六年二月六日 「モーリス・ホワイト」


 きょうは早めに寝る。きょうから寝るまえの読書は、『ペルディード・ストリート・ステーション』の下巻。時間がかかるようになってきた。仕方ないか。ヴィジョンを見るのに、時間がかかってるんだと思う。若いときよりずっと緻密なような気がする。

言葉によって
ぼくが、ぼくのこころの有り様を知ることもあるが
それ以上に
言葉自体が、ぼくのこころの有り様を知ることによって
より言葉自身のことを知るのだということ。
それを確信している者だけが
言葉によって、違った自分を知ることができるであろう。

『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻、200ページまで読んだ。5匹の怪物の蛾のうち、1匹をやっつけたところ。『クラ―ケン』並みのおもしろさである。魔術的な世界を的確な描写力で、現実のように見せてくれる。こんな作品を読んでしまったら、自分の作品『図書館の掟。』を上梓するのが、ためらわれる。

出すけど、笑。

モーリス・ホワイトが亡くなったんだね。EW&Fを聴こう。


二〇一六年二月七日 「そして誰かがナポレオン」


 投票会場に行ってきた。本田久美子さんに入れたけど、アイドルみたいなお名前。

わさび茶漬けを食べて、あまりの辛さに涙。

 読んでない詩集が2冊。寝るまえに読む。ボルヘス詩集とカミングズ詩集である。

 ボルヘス詩集は1600円くらい、カミングズ詩集は4000円で買ったので、カミングズ詩集を読んでいたのだが、びっくりした。「そして誰かがナポレオン」ってカミングズの詩で、「肖像」というタイトルで、伊藤 整さんが訳してたのだね。ぼくは「そして誰もがナポレオン」って記憶してたのだけど、ツイッターで、どなたかご存じの方はいらっしゃらないかしらと呼びかけたのだが、いっさいお返事はなくて、もしかしたら、ぼくのつくった言葉かしらんと思っていたのだが、記憶とちょっと違っていたけど、カミングズの詩句だったのだね。案外、記憶に残ってるものだ。ここ数年の疑問が氷解した。カミングズ詩集、持ってて、手放しちゃったから、捜してた時に見つからなかったのだけれど、もう二度と手放さない。カミングズの詩、じっくり味わいながら読もう。


二〇一六年二月八日 「カミングズ詩集」


 神経科の受診の待ち時間にカミングズの詩集を読んでた。詩は読むの楽でいいわ。ミエヴィルの小説とか辛すぎ。これから寝るまで、カミングズとボルヘスの詩集を読む。

EW&F聴いてたら元気が出てきた。

 ぼくが買ったときには、4000円だったカミングズの詩集が、いま Amazon 見たら、18000円だった。海外の翻訳詩集、もうちょっとたくさんつくっておいてくれないのかしらん。

 EW&Fのアルバムで持っていないもの(売りとばしたため)を買い直そうと思って、アマゾン見たら、1円だったので、逆に買いたい意欲がなくなってしまった。買ったけど。EW&F『ヘリテッジ』

 きょう、むかし付き合ってた男の子が遊びにきてくれてたんだけど、話の中心は、ぼくの五十肩。30代の彼には想像できないらしい。そうだよね。ぼくだって、自分が若いときには、存在しているだけで苦痛が襲ってくる老化現象など想像もできなかったもの。いまなら年老いた方の苦痛がわかる。遅すぎるかな。

 カミングズ詩集、半分くらい読んだ。きょうは残りの時間もカミングズ詩集を読む。小説と違って、さくさくと読める。やっぱり、ぼくは詩が好きなのだと思う。

 きょうから睡眠薬が1つ替わる。ラボナからフルニトラゼバムに。むかしは服用したら5分で気絶する勢いで眠れたのだけど、さいきんは眠るまで1時間くらいかかっているので、その時間を短くしてほしいとお医者さんに頼んで処方していただいたクスリの1つだ。11時にのむ。気を失うようにして眠れるだろうか。

 あした、あさっては学校の授業がないので、カミングズとボルヘスの詩集を読み終えられるかも。翻訳詩集の棚をのぞいたら、読んでないものは、この2冊だけかな。

ゾンビ恋人たちは、互いに春を差し出す。
ひび割れた頬にいくつもの花を咲かせ、
枯れた指に蔓状の葉をつたえ這わす。
ゾンビ恋人たちの胸は、つぎの春を待つ実でいっぱいだ。
血のように樹液を滴らせながら、ゾンビ恋人たちは抱き締め合う。
ゾンビ恋人たちのあいだで、無数の春が咲きほこる。

 寝るまえにクスリのチェックしたら、2つ替わってた。どんな状態で眠るのかわからないので、11時ジャストに服用することにした。1錠だけじゃなかったのね。ドキドキ。


二〇一六年二月九日 「哲学の慰め」


 12時に眠った。3時半に起きた。腕の痛みで。痛みがなければ、もう少し寝れたと思う。

 ようやくカミングズの詩と童話を読み終わった。肘の関節痛で、お昼から横になって、苦しんでいて、なかなか本を手にできなかったため。これから塾に行くまでに、カミングズの芸術論などを読む。カミングズの童話を読んで、こころがなごんだ。現実の苦痛のなかにあっても。

 ボエティウスが『哲学の慰め』をどういう状況で書いたのかに思いを馳せると、ぼくの肘の激痛も烈しい頭痛も、なんてことはないと思わなければならない。もう左手いらんわと思うくらいに痛いのだけれど、それでも詩集を開き、詩を読み、自分の新しい詩作品の構想を練る自分が本物の奇人に思えてしまう。

これも1円やったわ。EW&F『Millennium』

 ヤフオクとAmazon のおかげで、欲しいものが簡単にすべて手に入る。ラクチンである。ネット時代に間に合ってよかった。ネット時代にいなかった芸術家には悪いけれど、芸術家にとって、こんなにラクチンな時代はないように思う。他者の芸術作品を手に入れるのも、自分の作品を見せるのも超簡単。

寝るまえの読書は、カミングズの散文。


二〇一六年二月十日 「いちびる。にびる。さんびる。」


 むかし売ったやつね。新品で、612円だった。EW&F『Last Days & Time』

 きょうは塾の給料日で、遊びに出かけたいのだが、体調がきわめて悪くて、たぶん、塾が終わったらすぐに帰って寝ると思う。塾に行くまでに、ミエヴィルとカミングズのルーズリーフ作業を終えたい。

 ぼくは、カミングズの詩を読みながら、自分がしたことを思い出し、自分がしなかったことも思い出していた。

 いちびる。にびる。さんびる。にびるは、いちびるよりいちびること。さんびるは、にびるよりいちびること。

 鳥の囁く言葉がわかる聖人がいた。動物たちの言葉がわかる王さまがいた。さて、事物の言葉を解する者って、だれかいたっけ?

寝るまえに、ボルヘス詩集を読もう。


二〇一六年二月十一日 「闇の船」


きょうは体調が悪いので、京都詩人会の会合は中止します。

 ご飯を買いにイーオンに。きのう、塾の給料日だったから、上等の寿司でも食べよう。

 きのうブックオフで、サラ・A・ホワイトの『闇の船』を108円で買ったけど、以前に自分が売り飛ばしたやつだった。なにしてるんだろ。

 ボルヘスの詩も飽きたので、ヤングの短篇集『ジョナサンと宇宙クジラ』を拾い読みして寝る。

 けさ、京大のエイジくんの夢を見た。いっしょに大阪で食べもん屋で食べてたんだけど、エイジくんは常連さんだったみたいで、ドラッグクイーンのほかの客に話しかけられてて親しそうにしてたからちょっと腹が立った。齢とって40才くらいになってたかな。なんで夢みたんやろ。しょっちゅう思い出すからかな。


二〇一六年二月十二日 「ありゃりゃ。」


ボルヘスの詩を読んでいて、メモをとるのを忘れていた。


二〇一六年二月十三日 「理解の範囲」


 苦労したり頑張ってつくったものに、あまりいい作品はなかったように思う。楽しみながらつくったものに、自分ではいいのがあるような気がする。『The Wasteless Land.』とか、ほんとに楽しみながらつくってた。まあ、どれも、楽しみながらつくってるけど。でも、思うんだけど、「こんなに苦労する」なんてのは、若いときだけの思いなんじゃないかな。ぼくも、若いときには、生きてること自体が苦痛に満ちていたように思うもの。いまは、苦痛なしの人生なんて考えられないし、苦痛をさけるなんていうのは怠け者の戯言だと思ってる。齢をとると、ひとには、自分の気持ちが伝わることなど、けっしてないのだという確信に至ると、まあ、たいてい、他人の言葉は、気分を害することのないものになるしね。ヴァレリーが書いてたように、ひとは自分の忖度できないことには触れ得ないんだしね。たくさんの詩人が、他の詩人の詩の評を書いているけれど、自分の理解の範囲がどれだけのものかを語っていることに気がつけば、そうそう、他人の詩について語ることはできないような気がするのだけれど。あれ? ずれてきたかな。ああ、ぼくは、こう書こうと思っていたのだった。「苦労して作品をつくる」などということは、創造的な人間にはあり得ないことなのだと。楽々と、楽しくつくってるんじゃないかな。しかも、実人生が与えてくれる苦痛をも、ある程度、おもしろがって味わっているような気がするしね。ずいぶん離れたこと書いてたなあって、いま気がついてしまった。ごめんなさい。思いついたら、なかなか言葉がとまらなくて。


二〇一六年二月十四日 「ロキソニン」


 リハビリのひとつとして、SF小説のカヴァーをつくった。呼吸しているだけで、上半身の筋肉が電気的な痛みを帯びるような症状である。ストレスのあるときにこうなったことがあるが、いまストレスの原因はないはずなのだが。ペソアが47歳で死んだことを考えれば、55歳のぼくがいつ死んでもおかしくはない。このあいだ出した『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』と、もうじき出るはずの『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』がさいごの詩集になってもおかしくはないのだが、ことし3月に編集する詩集『図書館の掟。』もぜひ出して死にたい。

 きょうつくったクリアファイルカヴァーでは、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』が、いちばんかわいい。

 痛みに耐えながらでも、ボルヘス詩集を読もう。苦痛を忘れさせてくれる読書というものはないのかな? 『歯痛を忘れる読書』とかいうタイトルで本を書けば、売れるかもね。

 スピーカーの横からロキソニンが10錠見つかった。ためしに2錠のんでみる。いつの処方だったかはわからないくらいむかしのクスリ。

 きょう、どこかで、ぼくの詩集が紹介でもされたのかしら? ぼくの楽天ブログ「詩人の役目」のきょうの閲覧者数が280人を超えてて、いつも30人から40人のあいだくらいなんだけど。

 ロキソニンが効いているのか、腕を上げられるところまで上げても痛くない。とはいっても、肩くらいの高さだけど。しかし、痛みをとるクスリというのは、考えたら怖い。根本治療をしないで、痛みを感じさせないものなのだから。まるで音楽のようだ。

 きょうは、もう寝る。クスリをのんだ。そいえば、きのう日知庵に行くまえに乗った阪急電車で、フトシくんに似た子が乗って、向かいの席に坐ったのだけれど、その記憶が残っていたのか、日知庵からの帰り道、フトシくんが、ぼくのために歌ってくれたユーミンの「守ってあげたい」が頭のなかに流れた。

 書いておかなければ、日常のささいなことをほとんどすべて忘れてしまうので書いておいた。きのう書こうと思って忘れていた。思い出したのは、音楽の力だ。適当にチューブを流していたら、とてもファンキーな音楽と出合って、思い出したのだった。


二〇一六年二月十五日 「モーム、すごいおもしろい。」


 ボルヘスの詩集を読みながら寝てしまった。きょうは、もうボルヘスの詩集を読み終わりたい。ルーズリーフ作業も終えたい。コーヒーのんだら、さっそく読もう。

 きのうまでの無気力が嘘みたい。痛みどめが効いているのだろう。気力が充実している。ボルヘス詩集を読み終わり、あまつさえ、ルーズリーフ作業も終わったのだった。きょうは、これから、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻を読む。良質の文学作品によって、霊感を得るつもりだ。

 痛みどめで、こんなに気力が変わるなら、もっと早くのめばよかった。きょう、あとでイーオンに五十肩専門の痛みどめを買いに行こう。

キップリングを読んでいる。

 きょうはまだ痛みどめを服用していないのだが、関節の痛みはないわけではなく、痛みどめをギリギリまで服用しないでおこうと思っただけであった。

 岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻2作目、アーノルド・ベネットの作品、えげつない。ベネットといえば、有名な格言があったけれども、それも、えげつない。たしか、こんなの、「とにかくお金を貯めなさい。それだけが確実に、あなたを守ってくれるものだから。」だったかな。うううん。それとも、「一にも二にも、お金を貯めなさい。お金を持っていないことは、お金がないことと同様に無価値だからである。」だったかな。なんか、お金に関する格言だった。イギリス人の作家の意地悪なところが大好きである。

半端ない寒さなので暖房をつける。ふだんは、けちってつけていない。

 岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻、3つ目に収録されているモームの『ルイーズ』を読んでいるのだが、あまりにもおもしろくて、声を出して笑ってしまった。ああ、そうか、こんな書き方もあったんだなって思った。笑けるわ~。

 イギリス人のユーモアは、えげつなくて大好き。ウッドハウスのも収録されてたと思うけど、モーム、集めようかな。創元から出てるエラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』に入ってるモームの『園遊会まえ』も笑いに笑った作品だったが、モームって、こんなにおもしろかったなんて知らなかった。『ルイーズ』も『園遊会まえ』も、女性をひじょうに嫌っている感じがしたのだけど、ウィキを見ると、モームはゲイだったんだね。知らなかった。大先輩だったんだ。ぼくもゲイだけど、べつに女性が嫌いではないし、作品のなかで、女性にひどい扱いをしたことなんかもないけど、そういうひとはいるかな。

 クリスティやP・D・ジェイムズのように、えげつない女性を書く女性の作家もいるし、性はあまり関係ないのかもしれない。まあ、もともと作家の性なんて、あまり指標にはならないものかもしれないしね。ティプトリーのような例もあるしね。そいえば、ぼくも、レズビアンものを書いたことがあったっけ。というか、一人称の女性として書いたものもあるしなあ。そいえば、蠅になって書いたこともあるし、同時にさまざまな人物(これまたイギリス出自のぬいぐるみキャラ含め)になって書いたこともある。性も、性的志向も、作品とは、あまり関係がないものかもしれない。


二〇一六年二月十六日 「ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!」


ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!

 わっ。どなたか買つてくださつたみたい。ぼくには、お金が入らないけど、ありがたいことだとこころから思ふ。ありがたうございました。このやうに、ぼくの詩集がぜんぶ100円だつたらいいのだけれど。

 きのう眠るまえに、ウッドハウスの『上の階の男』を読んだことになっている(栞でわかる)のだけれど、いま読み返したら、ぜんぜん憶えていなかったので、もう一度読んで寝る。また憶えてなかったら、あしたも読む(かな)。

 きょうも暖房をつけて寝る。貧乏人がどんどん貧乏になっていく冬。はやく終わりなさい。


二〇一六年二月十七日 「確定申告」


確定申告に行ってきた。

 塾の帰りに、ブックオフで2冊買ったけど、1冊は本棚にあったものだった。そうだよね。本をめくってみて読んだ記憶がなかったから買ったんだけど、ぼくが買わないわけはない本だった。岩波文庫の『ギリシア・ローマ名言集』記憶がないのは、ただ忘却しただけだったのだ。お風呂場で読み直して捨てる。

 あと1冊は、これもむかし読んだかもしれないけれど、確実に本棚にはないことを知っている本だった。荒俣宏監修の『知識人99人の死に方』 ぼくもじきに死ぬことになると思うから、つい買ってしまった。一人目が手塚治虫で、60歳で胃がんで亡くなっていたのだった。有吉佐和子は享年53歳である。

 痛み止めをのんで、お風呂に入ろう。『ギリシア・ローマ名言集』をもって入るけれど、読むのが怖い。読んだ記憶がないのが、とても怖い。

 きょうジュンク堂に寄って、見つからなかったから、Amazon で、注文した。『モーム語録 (岩波現代文庫)』

 お湯をバスタブに入れるまえに鏡で自分の顔を見てびっくりした。真白である。目のしたに隈ができていて、ほとんどゾンビのような顔である。じきに死ぬどころか、とっくに死んでいる顔である。記憶力が低下していることも怖いけれど、顔のほうが、もっと怖い。


二〇一六年二月十八日 「バッド・ベッティング」


彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
be
free
思いがけない
バッド・ベッティングで
ドライブ
「この近くに風呂屋ってないの?」
「いっしょに行く?
 ぼくもいまから行くところやから」
彼は
彼女とカーセックスするために
ぼくにきいたのだった。
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
「ぼく、この曲
 好きなんだよね。
 いいでしょ?」
大黒のマスターが苦笑い。
「はいはい。
 あっちゃんの好きな曲ね」
メガネの奥が笑ってないし、笑。
be
free
「これって
 スクリッティ・ポリティも歌ってなかったっけ?」
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
エナジーにみなぎる
カーセックス
ぼくは、彼が
彼女とカーセックスするって知らなかった。
「なんで同じシーンが繰り返されるの?」
大学でもそうだった。
友だちは
彼女のことよりも
ぼくのことのほうが好きだって
思い込んでた。
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
街は
思い出の
プレパラート
Mea Culpa


二〇一六年二月十九日 「あいつらのジャズ」


 これからお風呂に。お風呂から上がったら、『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業をして、下巻を読む。

 55歳という齢になって若さも美しさも健康も失ったのだけれど、そのおかげで、ぼくへの評価はただ作品の出来によるものだけであることがわかる。なんの権威もなく、後ろ盾となってくれるひともいないので、ただ才能のみによって、ぼくへの評価がなされる。あるいは評価などされないということである。

 ルーズリーフ作業。楽しい苦しい作業。苦しい楽しい作業。日々の積み重ね。才能も、努力があってこそ発揮されるものなのである。

 岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻に入っているハクスリーの「ジョコンダの微笑」は、創元推理文庫の『犯罪文革傑作選』では、タイトルが「モナ・リザの微笑」になっていたが、同じものだ。訳者が違って、翻訳の雰囲気がぜんぜん違う。創元のほうを先に読んでいたのだが、岩波のも軽くて好きだ。若い愛人の女が、38歳の男にむかって、「ねえ、小熊ちゃん」と何度も呼びかけるのが岩波のほうの訳で、なんともコミカルである。創元のほうの訳では「ねえ、テディー・ベア」と呼びかけるのだが、「ねえ、小熊ちゃん」と呼びかけられる太った男の姿の方がかわいい。いずれにしても、複数のアンソロジーに入るのだから、大したものだ。たしかに傑作だ。ぼくのこんど出した『全行引用詩・五部作・上巻』にも、引用した箇所がある。創元の龍口直太郎の訳の方だけど。岩波文庫を先に読んでたら、小野寺 健の訳の方を引用してたかもね。

 時間とは、すなわち、ぼくのことであり、場所とは、すなわち、ぼくのことであり、出来事とは、すなわち、ぼくのことである。

 本質的なものが失われることなどいっさいない。それが言葉の持つ霊性の一つだ。ぼくが描写した言葉のなかに、その描写した現実の本質がそっくりそのまま含まれているのだ。そうでなければ、ぼくが言葉にして描写することなどできるわけがないではないか。

ぼくは彼に惹かれた。彼がぼくに惹かれた様子はまったく見えなかった。

 選ばれなかった言葉同士が結びついていく。選ばれなかった人間たちが互いに結びついていくように。

 きょうもお風呂から上がったら、両肩、両肘にロキソプロフェンnaテープ100㎎というシップをして、痛みどめにしている。3回か4回、自殺未遂したけど、死なずによかった。齢をとって、こんなに身体が痛いなんてことを知ることができてよかった。苦痛が、ぼくの知的な関心を増大させるからである。

 齢をとって、身体がボロボロになって、苦痛に襲われて、こんなに愉快なことはない。この苦痛のなかで、ぼくは本を読み、笑い、考え、反省させられ、詩句のアイデアを得ることができるのである。おそらく、ぼくは、どのような苦痛のなかであっても、その苦痛をさえ糧とするだろう。詩を生きているのだ。いや、詩を生きているのではない。詩が生きているのだ。ぼくという人間の姿をして。

 岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業が終わったので、読書をする。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻である。楽しみである。

 ジーン・リースの「あいつらのジャズ」よかった。不条理だと思うけれど、人生って不条理だらけだものね。納得。まあ、刑務所というところには入ったことはないけれど、描かれているようなものなのだろうなとは思う。イギリスで差別されてた有色人種の側から見たものだったけれど、訳がよかった。


二〇一六年二月二十日 「星の王子様チョコ」


夕方から日知庵に。それまで『モーム語録』でも読んでいよう。

 いま帰った。竹上さんから、星の王子様のチョコレートをいただいた。包装もおしゃれだし(本のように出し入れできる)紙袋もおしゃれだった。やっぱり、かわいいものを、女子は知ってるんだな。

竹上さんにいただいた星の王子様チョコ、めっちゃ、おいしい。


二〇一六年二月二十一日 「こころの慰め」


 きょうは一行も読んでいない。数学もまったくしていない。ただただ傷みに耐えて、横になっていた。こころを癒してくれたのは、SF小説の本のカヴァーの絵たちである。ぼくの部屋の本棚に飾ってある本は、安いものだと、300円くらいだ。高くても、文庫なら、せいぜい1000円くらいだ。ブコウスキーの単行本『町でいちばんの美女』と『ありきたりの狂気の物語』は、両方ブックオフで105円で買ったものだ。また、アンソロジーの『太陽破壊者』も105円だった。もちろん、値段ではないのだ。絵のセンスなのだ。写真のセンスなのだ。しかし、その多くのものが安かったものだ。おもしろい。ぼくは安い値段のものを見て、こころおだやかに、こころ安らかに生きている。ぼくのこころをおだやかにさせるのに、何万円も必要ではない。

 神さまに、こころから感謝している。ぼくに老年を与えてくださり、身体をボロボロにして苦痛を与えてくださり(左手は茶碗を持っても傷みと麻痺でブルブルと小刻みに震えるのだ)、そうして、大切な大切な読書という貧乏な者にでも楽しめる楽しみを与えてくださって。

 ぼくは絵描きになりたかった。でも、部屋の本棚に飾ってある美しい絵の一枚も、きっと描く才能はなかったと思う。神さまはそのかわりに、ぼくに絵を楽しむ才能を授けてくださった。ぼくには、『ふるさと遠く』『発狂した宇宙』『幼年期の終り』などの初版の絵がある。『空は船でいっぱい』『神鯨』『呪われた村』『ユービック』『世界のもうひとつの顔』『法王計画』『シティ5からの脱出』『窒素固定世界』『キャメロット最後の守護者』『ガラスの短剣』『縮みゆく人間』などの素晴らしい初版の絵がある。まことに幸福な老年である。


二〇一六年二月二十二日 「ノブユキ」


これから幾何の問題をつくる。きょうは一日中、数学だな。

きょうやるべきことがすべて終わったので、これから飲みに行く。

 いま、きみやさんから帰った。おしゃべりしていて、とても楽しい方がいらっしゃった。三浦さんという方だった。また、同志社の先輩で、とてもかわいらしい方がいらっしゃった。年上の方でも、ごくたまに、かわいらしいと思える方がいらっしゃる。ごくごく、たまだから、ほんとにごく少ないのだけれど。

 ほんとにいやしいんだと思う、本に対して。『Sudden Fiction』をブックオフで108円で見つけて、また買った。お風呂に入って、読もうという魂胆が丸見えである。お風呂に入りながら見るのに、ちょうどいいんだよね。また、ぼくの忘却力もすごいから、再読したくもなるわけだ。うにゃ~。

 人間には2種類しかいない。愛というものがあると思っているひとと、愛という観念があると思っているひとの。

 ぼくが1年1カ月1週間1日1時間1分をどう過ごすかよりも、1年1カ月1週間1日1時間1分が、ぼくをどう過ごすかの方により興味がある。

 きみの1分は、ぼくの1時間だった。きみの5分は、ぼくの1週間だった。きみの1時間は、ぼくの1か月だった。きみの1日は、ぼくの永遠だった。

愛が永遠だというのは嘘だと知った。永遠が愛だったのだ。

愛については何も知らない。ときには、何も知らないことが愛なのだ。

 愛があると思って生きていると、そこらじゅうに愛が見つかる。愛というものがどんなものか、くわしく知らなくても、ともかく、愛というものが、そこらじゅうにあることはわかるようだ。

 特別な名前というものがある。それは愛と深く結びついた言葉で、その名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。その熱で楽に呼吸することができないくらいに。

Nobuyuki。歯磨き。紙飛行機。

 きみは最高に素敵だった。もうこれ以上、きみのことを書くことは、ぼくにはできない。

 2年のあいだ、付き合ってた。きみはアメリカに留学してたから、いっしょにいたのは数か月だったけど。なにもかもが輝いていた。その輝きはそのときだけのものだった。それでいいのだと、齢をとって悟った。そのときだけでよかったのだ。その輝きは。そのときだけのものだったから輝いていたのだ。


二〇一六年二月二十三日 「われわれはつねに間違っている。たとえ正しいときでさえも。」


 岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻を読んでいて、帰りに、エリザベス・テイラーの『蠅取紙』を読んでたら、これを読んだ記憶があったので、帰って、ほかのアンソロジーを見たけどなかったので、この岩波文庫自体で過去に読んでいたことを忘れていたようだ。まあ、いい作品だからいいのだけど。

 先週、ひさしぶりに会った友だちが、横に太ったねと抜かすので、頬を思い切りひっぱたいてあげた。太ったって言われることは、べつにどうでもいいんだけど、たまにひとの顔面を思い切りひっぱたきたくなるのだ。みんなMの友だちを持つべきだと思う。すっきりするよ。

時間を経験する。
場所を経験する。
出来事を経験する。

逆転させてみよう。

経験を時間する。
経験を場所する。
経験を出来事する。

経験を時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

あるいは

経験が時間する。
経験が場所する。
経験が出来事する。

経験が時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

時間の強度。場所の強度。出来事の強度。
時間の存在確率。場所の存在確率。出来事の存在確率。
時間の濃度。場所の濃度。出来事の濃度。

この現在という、新しい過去である古い未来。

過去と未来が互いの周りをめぐってくるくると廻っている。
現在は、どこにも存在しない。
回転運動をさして現在と言っているが
それは完全な誤謬である。

われわれはつねに間違っている。
たとえ正しいときでさえも。

最後の2行は、ガレッティ教授の言い間違いの言葉の一部を逆転させたもの。


二〇一六年二月二十四日 「もっと厭な物語」


『20世紀イギリス短篇選』下巻、あと2篇。これが終わったら、『フランス短篇傑作選』を読もうと思う。これまた過去に読んだような気もするが、かまいはしない。読んだ記憶がないのだもの。さすがに、アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」は、ほかのアンソロジーにも入ってて知ってるけど。

田中宏輔は80歳で亡くなります。亡くなる理由は暗殺です。
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田中宏輔に関係がありすぎる言葉
「妄 想」
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 田中宏輔さんの3日後は、深夜1時頃、人通りの少ない場所を歩いていると、田中宏輔さんの性的欲求を満たしてくれる消防士に出会い、殴られるでしょう。
#3日後の運勢
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 塾の帰りに、ブックオフで、文春文庫『もっと厭な物語』を108円で買った。エドワード・ケアリーの作品のタイトルだけで笑けた。「私の仕事の邪魔をする隣人たちに関する報告書」というのだ。日本人作家が4人も入っているのが気に入らないが、外国人作家の方が多いから、まあ、いいか。表紙がグロくてよい。


二〇一六年二月二十五日 「戦時生活」


シェパードの『戦時生活』、まだ読み切れない。
こんなに時間のかかった小説ははじめてかもしれない。
実験的な手法も、きれがいいし
マジック・リアリズムそのものの表現もいいし
作品価値については
いっさい文句はないんだけど
読む時間がかかりすぎ~。
文章を目で追うスピードと
ヴィジョンが見えるスピードに
差があって
とても時間がかかっている。
内容がシリアスすぎるのかなあ。
それとも
ぼくが齢をとったのか。
「心がつくりだすものを、精神がうち壊すことはできない」(小川 隆訳)
という言葉が、347ページ3,4行目に出てくる。
おびただしく、ぼくはマーキングして、メモを書いている。
そのため、もう1冊、ネット古書店で買った。


二〇一六年二月二十六日 「たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。」


 たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。赤ん坊のときでさえ、そのブサイクさに母親があきれ果て、育児放棄をしたくらいですから。家には、ぼくのようなブサイクな赤ちゃんの面倒を見るような家族は一人もいませんでした。必然的に乳母となる女性を、親は雇ったのですが、その乳母の顔がまたブサイクで、ぼくは赤ん坊ながら、そのブサイクさにびっくりして、乳母がぼくの顔を見るたびに痙攣麻痺したそうです。ぼくのブサイクさと乳母のブサイクさを合わせると、カメラのレンズでさえすぐに割れたそうです。ですから、ぼくの赤ん坊のときのブサイクな写真は存在しておりません。伝説的な乳母のブサイクさは、ぼくが幼稚園に通う頃の記憶からすると、顔面しわだらけのお化けでした。幼稚園では、ぼくくらいのブサイクな子がほかにも一人いたので、そのブサイクな子と、いつもいっしょに遊んでいました。小学校、中学校と、そのブサイクな子とずっと同じ学校に通っていたのですが、高校にあがるときに、学力の違いから、別々になりました。でも、幸いなことに、ぼくが劣等な高校で上位になると、彼は優等な高校の下位になり、同じ大学で再会することができたのでした。しかし、世のなかには、変わった嗜好をしているひとたちがいて、ブサイクなぼくにも、ブサイクな彼にも、ブサイク専の彼女ができたのでした。ぼくの彼女も、彼の彼女もそこそこの美人でした。「あなたたちは、わたしたちのペットなのよ。」と、彼女たちに言われたことがありますが、まさしくペットの飼い主のように、ぼくたちにやさしく接してくれていました。大学を出て就職して、それぞれの彼女たちと結婚したのですが、ぼくの子どもも、彼の子どももとてもブサイクで、彼女たちの容姿を遺伝することはなかったようでした。でも、ぼくの子どもと、彼の子どもがとても仲がよくて、将来、結婚させようか、などと話したことがあるのですが、彼女たち二人ともが絶対にだめだわよと言うのでした。ブサイクならかまわないのよ、ブサイクの2乗は、もう人間ではなくってよ。と、二人の女性は同じことを言うのでした。ブサイクと、ブサイクの2乗に違いがあるのか、よくわからないのですが、ぼくも、彼も、女性陣にはかなわないので、ぼくたちの子ども同士の交際は、結婚にまで至らせることはできないものだと思っております。

ラクダが針の穴を通るのは難しいが、針の穴がラクダを通るのは難しくない。

 ぼくは傑作しか書いたことがないから、傑作でない作品を書いているひとの気持ちは想像することしかできないけれど、よりよい作品ができたら、その作品以前の作品は、できたら、なかったことにしたいのではなかろうか。しかし、詩句や文章がそうなのだが、書いてきたものをなしにすることはできない。しかし、じっさいの生活のなかでは、こういうことはよくある。ある一言で、あるいは、ある一つの振る舞いで、その言葉を発した相手のことを、そのような振る舞いをした相手のことを、さいしょからいなかったことにするのである。じっさいの生活では、しじゅうとは言わないが、よくひとが、いなくなる。

 岩波文庫の『フランス短篇傑作選』おもしろすぎ。イギリス人の意地の悪さも相当だけれど、フランス人の意地の悪さも負けてはいないな。意地の悪さというより、気持ち悪さかもしれない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝る。痛みどめを入れると10錠である。わしは、クスリを食っておるのだろうか。

 きのう、10年ぶりくらいに、うんこを垂れた。おならだと思って、ブッとしたら、うんこが出たのだった。すぐにトイレに駆け込んで、パンツを脱いで、クズ入れに捨てて、ビニールの口をふさいだのだ。もちろん、パンツを脱ぐまえにズボンを脱いだ。下半身丸出しだった。まあ、個室トイレのなかだけど。


二〇一六年二月二十七日 「柔道部の先輩」


以前に書いたかな。愛の2乗はわかるけど、愛の平方根はわからないって。

 10年くらい前、京大生の男の子に、あまり考え方が拡げられなくてと言われて、「読むもの変えれば?」と答えたらびっくりしてたけど、そのびっくりの仕方にこちらのほうがびっくりした。読む本が変われば、見る映画が変われば、食べる食べものが変われば、ひとは簡単に変われるものだと思ってたから。

 これから、むかし付き合ってた子とランチに。けっきょく、お弁当買って、部屋でいっしょに食べただけ。あとは、腰がだるいと言うので、腰をマッサージしてあげただけ。ぷにぷにした身体をさわるのは大好きなので、いいよいいよって言って、揉んであげた。高校時代の柔道部のかっこいい先輩にマッサージさせられたときのことが、ふと思い出された。


二〇一六年二月二十八日 「目が出てる。」


 目が出てる。あごが出てる。おでこが出てる。おなかが出てる。指が出てる。足が出てる。

 目が動いてる。あごが動いてる。おでこが動いてる。おなかが動いてる。指が動いてる。足が動いてる。


二〇一六年二月二十九日 「なにげない風景」


 きみやさんに行くまえに、オーパのブックオフで、新潮文庫の『極短小説』というのを買った。108円。浅倉久志さんが選んだ極端に短い話(55字以内)が載っていて、ぼくがいま『詩の日めくり』で1行や2行の作品も書いてるけれど、なんかおもしろそうだと思って買った。オーパのブックオフの帰りに乗ったエレベーターで、ボタンのそばにいた男の子がかわいいお尻をしていたので、ずっと見ていて、1階に降りたときに、「ありがとう」と言うと、ぼくの顔を見て、きょとんとしていた。


二〇一六年二月三十日 「点の、ゴボゴボ。」


病院には直属の上司はきませんでした。
きてくれたのは
今年の教育係のひとと
今年いっしょに入ったひとの二人だけです。
うれしかったです。
でも
ひとりは
教育係のひとですけど
最後のほう
時計をチラチラ見て
その病院の近くにある会社に
会社の用事があって
そのついでに寄っただけだと言ってました。
─それってもしかしたら、女性?
ええ
どうしてわかったんですか。
─だって、女のひとに多いじゃん。
 相手のこと、いい気持ちにさせといて
 あとで突き落とすの
 言わなくてもいいこと、へいきで口にできるんだよねえ
 そゆひとって
 いやあ
 いるいる
 いるわ~
 前に
 西院の王将でさ
 スープをかき混ぜてた女の子の定員が
 鍋からね
 レンゲが出てきたんだけど
 そんなの口にしなきゃ
 客にはわからないのに
 声を張り上げてさ
 なんでレンゲが入ってるの
 なんて言うんだよね。
 それって
 客が食べ残したスープ
 もどしたってこと?
 って、ぼくなんか思っちゃって
 注文したのが定食だったんで
 出てきたスープ
 まったく飲まなかったよ
 なんちゅうバカだろね。
 きっと、バカは一生バカだよね。
 気分わるかったわ。


二〇一六年二月三十一日 「みつひろ(180センチ・125キロ。ノブユキ似のおデブさん)」


「三か月くらいになるよね、前に会ってから。」
「それぐらいかな。」
「ちゃんと付き合おうよ。」
「それはダメ。」
「どうして?」
「ほんとうになってしまうから。」
「彼女に悪いと思ってるんだ。」
「器用じゃないから。」
「もっと長い時間、いっしょにいたいんだけど。」
「ごめん。」
「35だっけ?」
「36になった。」
「何座?」
「しし座。」
「じゃあ、なってまだ2か月くらい?」
「うん。」
「胸毛、なかったっけ?」
「そってる。」
「なに、それ?」
「半年に一度くらい、そってる。」
そいえば、ノブユキも胸毛をそってた。
「彼女がそうしてって言うの?」
「・・・」
あんまり腹が立つから
一時間以上キッスしつづけて
口がきけないようにしてやった。



自由詩 詩の日めくり 二〇一六年二月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-04-17 00:08:01
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