コミュニケーションと詩
おぼろん

 人と接していると、時にその人の中に自分を見る、ということが起こり得ます。人というのは往々にして、というよりもしばしば相手の情緒やふるまいに合わせた行動の仕方をします。その時、相手が自分の思考や思惑に合わせすぎた行動を取った場合、その人の中に自分の影を見てしまうのです。
 人の中にある感情や動機は、自分の中にある欲求だけでなく、外界の事物や人間に合わせて、それに附合するように起こってくるということもあります。それはすなわち、外界にある事物や人間に「対処」していることだと言って良いでしょう。その際、ある人々の思想や感情などを、自分の中に忠実に再現することができれば、自分の中には何人もの人間が存在する、という状況も起こり得ます。小説家や劇作家がしている仕事というのは、架空の存在であるとは言え、自分の中に何人もの人間を作り出していることだ、と言えます。
 詩というのは、自分の心や思考の中から出てくる言葉を形にしたものですが、中国人は詩人のことを騒人とも呼ぶらしいです。この時の「騒」とは、心の騒がしさ、という意味であるそうです。
 先に書いたように、人は自分の中に様々な心を有しています。完全であれ、不完全であれ、一個の対象として人間を思い描かない限り、自分の中でその人に対する「対処」の仕方を見つけることはできないでしょう。人の中には、完全な、または不完全な何人もの他者が存在するのです。
 詩がコミュニケーションであった時代もあります。また、今もそうなのかもしれません。日本の平安時代などは、詩がコミュニケーションとほぼイコールであった時代です。政治や政界内での人間関係も、短歌を交わすことで処理されることがありました。その場合の詩は、自分自身の内にある動機であるとともに、他者への対処そのものであったでしょう。
 言葉はそもそも、交わされるということにその最たる意味合いがあります。単独で発される言葉は「独語」であり、本来その人自身にとってしか意味をもちません。しかし、詩の中には独語を芸術作品にまで高めたものも多く存在します。抒情詩というのは、ある意味ではその詩人の内部の独語だと言って良いでしょう。手紙や伝聞ではなく、届かぬ思いが形にされる時、美しい光芒を放つことがあります。それは、その届かぬ高さ故だと見ることもできます。
 独語が作品になった時、それは遠い存在である読者との対話だと見なすこともできます。歴史や世界の表に現れずに消えて行った作品は、独語そのものですが、その淡い薄闇の中から浮かび上がってくる叙述は、時には遠く離れた時代に生きる、見ず知らずの者同士の対話であると見なすこともできるのです。
 昭和初期の詩人である立原道造は「詩は対話である」と言いました。しかし、対話であることを意識せずに書いた作品であっても、読者という他者が現れた時、その言葉は独語から対話へと昇華することになります。人と接するという意識に欠けている言葉は、独尊を旨とする読者に対してしか響くことはありません。鑑賞に足る作品たることを求める詩は、その言葉のどこかに、人と接しようという意識がなければいけないということになります。
 人と接するということは、相手となる人の姿を自分の中に思い描くことに他なりません。そのためには、冷静に、あるいは温かくその人を見る目を持っていなくてはいけないでしょう。人を支配しようとする心が、相手の心の奥底に響き、影響を与えることはあり得ません。
 不完全な他者の把握が、そのまま不完全なコミュニケーションに、完全な他者の把握が、完全なコミュニケーションにつながる、ということは必ずしも言えませんが、思い描く相手の形が自分の中で大きな像を持っていればいるほど、彼ら・彼女らに対してかけられる言葉というものも、必然的に多く、多様になるでしょう。
 時に、人は自分にとって不利益になるような者たちとも交流を行わなくてはいけません。その時には、自分自身というものがかき乱されるような感情になるのが、人としての必然です。そのことを、古代の中国人は「騒」と呼んだのかもしれません(この言葉は、屈原という中国戦国時代の詩人の書いた詩集の題名に由来しているそうです)。
 騒がしさをそのまま「騒」として表現することも、その騒がしさを鎮静しようとすることも、ともに詩たり得ます。読者は、言葉の中に何らかの導を見ようとするでしょう。自分に対する語りかけを見るか、あるいは自分自身の中にある感情への処し方を見るか、読者が詩を読む場合のあり方は様々です。
 他者が人間の中に「騒」を作り出すように、詩という作品もまた、人の中に騒がしさを作り出すということは往々にしてあり得ることでしょう。しかも、その中には作者という自己、その自己の中にある他者、その自己の中にある他者の中にある他者・あるいは自己、といった幾重にも重なった階層構造が含まれています。自分の中にある何ものかを処理したい、という動機がなければ、人は独語を生み出す必要はありません。あるいは、他者に対して声をかけるのでなければ、コミュニケーションとしての言葉も必要ないでしょう。 
 そういった心の中の喧騒を、適切に言葉としてまとめあげている時、そこにはある種の迫力すら感じられるかもしれません。短い文章の中に、コミュニケーションの真髄が現れている、ということが起こり得るのです。
 詩は、時には感情となり、時には理性となります。理性では処しきれないものが「歌」だと考えてみても良いでしょう。「そこにあるしかないもの、その形でしか存在しえないもの」が、それです。人は時として、処しきれないものに巻き込まれて、その渦の中から抜け出せない、ということもあります。その時、「そうでしかありえないもの」というあり方を示すのも、詩の役割、あるいは効果の一つです。人と人とのコミュニケーションとして例示すれば、触れないようにしてそっと触れる、あるいはある程度の距離を取る、といった態度も「そうでしかありえないもの」に含まれるでしょう。
「人は傷つきやすい生き物だ」という言葉が、今の時代に適切なものなのか、適切ではないものなのかは分かりませんが、時代および社会は、そうではないことを人に求めているような気がします。これは、人の集まりとしては矛盾したあり方だと言えますが、矛盾を孕んでいることも、また自然や社会の本質です。
 それゆえ、感情には発露というものがあるため、人が真に行き詰まる時は「理知」に行き詰まる時だと言えます。理性では処しきれないもの、というのが自然の中にも社会の中にも多くあるからです。むしろ、そのほとんどが理性では処理しきれないものだとも言えます。
 詩は、近い読者、あるいは遠い読者との対話です。それと同時に、自分自身との対話でもあります(人は自分の中に様々な他者を思い描くものだ、ということを想起してください)。誰に向かって何を伝えようとしているのか、ということも考えながら詩や言葉を読んでいくとき、その作品からは、表面的な意味以上のものも読み取れてくるのではないでしょうか。
 もちろん、それを理性では解きほぐせない場合もあります。その場合には、温かく包み込むように読んでいく必要があります。詩を読む、ということもやはりコミュニケーションの一つなのです。言葉に触れれば、そこには必然的に何らかの思いや感情が生まれてきます。書き手にとっては、読者が何を感じるのか、ということも考えておかなくてはいけない所以です。
 作者がどのような世界や人間を見、どう接し、どう触れていって、どう濾過したか、その結晶こそが作品の真価だと言えます。ただ、美しい言葉を産むために孤独を選ぶ人間が平凡だとすると、幾人かの詩人は価値のないものになってしまいます。そこが文学の不思議なところだとも言えます。ボードレールなどは、群衆の中にあって孤独を求めた人間です(比喩として表現すれば、ボードレールは、群衆の中で一個の純粋な「目」になっていた、と言うことができます)。
 孤独を求めた詩人は多くいます。あるいはエミリー・ディキンスンなどの名前を知っている人も多いでしょう。宮沢賢治の生き方にしても、文学界を捨てて庶人という孤独の道を選んだ結果だと言えます。孤独を選ぶというのも、あるいはコミュニケーションの一つの形なのかもしれません。
 一つだけ言えることは、詩あるいは文学作品というのは、多くの他者(あるいはその像)の集合としての自己の発現だということです。人は一人だけで生きているのではありません。その自我の形成にも、多くの他者や自然の事物が関わっています。まさしく、詩とは作者の生き様であり、いかに生きたかの証左なのです。言葉を求めて言葉を失うということも、あるいは詩人にとっての一つの答えかもしれません。もちろん、言葉を紡ぎ続けることも、その対極にある答えです。
 コミュニケーションと孤独とは、それぞれが対極にあるようでいて、実際は似通っているものなのではないでしょうか。


散文(批評随筆小説等) コミュニケーションと詩 Copyright おぼろん 2021-03-27 04:07:56
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