美しい女
黒田康之

先日、本屋へ行った。
ご贔屓の作家の旧作が文庫になったのを知ったからである。
お目当ての一冊の場所を確認すると
せっかくなので
呼ばれた順に本を手に取って立ち読みをした。
寝しなに読むのにちょうどいいもう数冊を探したかったのだ。

しばらく読み耽っていると
歳の頃二十代前半の
髪を少しだけ明るく染めた女性が僕の横で本を手にした。
時節柄、大きな白いマスクで顔は見えない。
百六十センチを超えるだろう彼女の視線は
僕の唇の丈である。

彼女は僕のすぐ前の書棚に興味があるらしい。
私は本をしまうとその場を離れた。

新潮文庫
講談社文庫
本棚を行き来すると少し遅れて彼女が来る

知り合いだろうか
いや覚えがない。
角川文庫
創元社SF文庫

彼女はスマホを取り出し
何かを調べながら僕のそばにくる。

ちくま文庫
岩波文庫
エピクロスを手にすると彼女の姿が消えた

よし
と思ってしばらく読んで、さっきの本を
と思うと
彼女は僕の正面の新書コーナーにいた。

慌てて雑誌のコーナーに。
ここなら大丈夫と
角川の『短歌』を眺めていると
数冊を手にした彼女は僕の横で『文学界』を手に取った。

中程にあった気鋭の数首は
その時
もうすでに彼女の声であり、吐息であった。

本を閉じる指にははっきり彼女の体温があった。

僕はまたも本を置くと
グルメ雑誌のコーナーに歩く。

平積みの雑誌をペラペラ
それを置くと、棚の向こう側には彼女の
紺色の事務服っぽいスカートとカーキーのダウンの裾があった。

今見ていた老舗の煮込みも銘店のおでんも
ちょっと工夫されたおかずの数々も全部彼女の手料理であることに気がつく。
実にこなれたいい匂いが僕の空間を満たす。
僕の目の前の徳利の本数だけが増えていく。
美容雑誌を読んでいる彼女を横目で見る

仕事帰りなのだろう、地味なスニーカーを履いている。
紙とインクの匂いはいつのまにか彼女の髪と肌の匂いだった。

僕はお目当ての一冊だけを手にレジにたどり着いた。
慌てた手つきで支払いを済ますと
僕はそそくさと店を出た。

当然、あいさつも会釈もなく
彼女とは離ればなれになった。

十年も愛の暮らしをしていたような時間が
あの本屋にはあった。

見知らぬ彼女は美しかった。

知的で穏和な視線以外何も知らない。
だが
彼女が美しくないとしたなら、
僕は誰を美しいと認めればいいのだろう。


自由詩 美しい女 Copyright 黒田康之 2021-02-23 18:38:36
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