- Das Schloss
ある朝のこと。洗面台の鏡に黄緑色の蜘蛛が一匹、じっと自らを見つめるように、毛髪のような細い長い脚を開いて留まっていた。蓬髪の男はそれを見ながら歯を磨き、顔を洗うと仕事場へ出かけた。
日が沈み、男は仕事から帰ると部屋で独り、酒を呑み始めた。それは、昼間の出来事を一つ一つ思い出しながら、しかしまるでそれら一々を忘却し葬るような、その男のここ数年の日課である。
部屋のそこかしこに生活の残滓残骸が堆積している。
燐寸を擦り、煙草に火を点ける。僅かに口を開き漏れ出る一度吸った煙をすかさず鼻で吸い込む。それは、昔そんな煙草の吸い方を誰かがやっていたのを男が見て真似するようになった仕草だ。
「煙は自由なものだな」そんな風に考えながら、男は煙が漂っていく様をぼんやりと酔った眼で追っていく。すると、
脂で汚れた天井の隅にふわふわと真新しい銀色の蜘蛛の巣が揺れていた。朝の蜘蛛が何か気が済まなそうな、それでいて厳かな雰囲気で、鏡に留まっていたときの姿勢で巣の中心で沈黙していた。
「そんなところに巣を張ったって、獲物なんてあるのか?」
(いずれ、あんたがわたしの獲物ですよ)
男と蜘蛛の会話はそんな風に始まった。
男は、いつ自身がこの蜘蛛の餌食になるのかと、何か名状しがたい、しかし奇妙にも期待に似た気持ちを抱えながら、日々の出来事、それらに際して考えたことなどを蜘蛛に話した。
蜘蛛は、八つの瞳で男の心中にあるゆらゆら蠢くものをつぶさに観察しながら黙って男の話を聞いていた。
男が疲れ果て帰った或る晩、見上げる天井の巣に蜘蛛がいない。真下の読みかけの本や未読の手紙の山の上に、蜘蛛は棄てられた折りたたみ傘のような姿で死んでいた。男は蜘蛛の死骸を拾い上げ、手のひらにのせた。すると、蜘蛛の死骸の脚は幾つも幾つも生え増え始め、
薊の丸い
冠毛のような姿になった。
男は何年も開けていない硝子戸、雨戸を開けると、夜空の中心には歪んだ銀の釦のような月が輝いていた。男が戸の隙間から手を差し出すと、冠毛はふわふわと手のひらを離れ、月に向かってゆっくり飛翔していく。
「そうか」
男はそう云うと音を立て雨戸、硝子戸を閉め、酒をあおって寝てしまった。
しばらく、男が天井を見上げても、そこには主がいなくなった蜘蛛の巣が揺れているだけだったが、蜘蛛がいるかのように巣に向かって話しかける日々が続いた。しかしやがて以前のような無言の生活に男は還っていった。
ある朝、男は目を覚まし、紅茶だけの朝食を終え、洗面室に歯を磨きに行くと、洗面台の鏡に黄緑色の蜘蛛が一匹、いつかの朝のように、毛髪のような細い長い脚を開いて留まっていた。
そして、その夜、
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了