詩の日めくり 二〇一五年三月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一五年三月一日 「へしこ」


 日知庵で、大谷良太くんと飲みながらくっちゃべりしてた。くっちゃべりながら飲んでたのかな。ケルアック、サルトル、カミュの話とかしてた。へしこ、初体験だった。大人の味だね。帰りに、西院で駅そばを食べた。毎日がジェットコースター。


二〇一五年三月二日 「ぼくより背が高いひとがいない」


 ぼくは身長がひじょうに高いので、いつも、ひとの顔を見下ろして話してることになるのだけれど、たまには見上げながら話す経験もしてみたいなとは思う。でも、ぼくより身長の高い人って、まわりに一人もいないし、道端で歩いてるひとたちも、ぼくの半分くらいの背しかないし、無理かもしれない。


二〇一五年三月三日 「ぶふう」


ぶふう
ぶふう
って、彼女の髪の毛のなかに息をこもらせる。
ベンチに坐っていると
向かい側のベンチで
高校生ぐらいの男の子が
おなじくらいの齢の女の子の後ろから
ぶふう
ぶふう
って、髪のなかに息をこもらせる。
そのたんびに
女の子の頭が
ぶほっ
ぶほっ
って、膨れる。
なんども
ぶふう
ぶふう
ってするから、そのうち
女の子の頭がパンパンに膨れて
顔も大きくおおきくなって
歯茎から歯がぽろぽろこぼれ落ちて
ひみつ
と呼びかける。
本棚を見つめながら
本の背に
ひみつ
と呼びかける。
本棚に並んだ本が聞き耳を立てる。
ひみつ
という言葉が中継して
ぼくと本棚の本を結びつける。
手のそばにある電話に
ひみつ
と呼びかける。
電話が聞き耳を立てる。
ひみつ
という言葉が中継して
ぼくと電話機を結びつける。
ひみつ
と呼びかけると
まるで、ひみつというものがあるような気がしてくる。
ええっ?
そんな画像送ってきてもらっても。
人間って、いろんなことするんやなあ
って
いや
人間って、いろんないらんことするんやなあ
って、思うた。
もうはじめてしまったものは仕方なく
だれがだれだかわからない
連鎖
順番に見ていこう
これは違う
これは、わたし
これは違う
あ、これも、わたし
これは?
ううん、どちらかと言えば、わたしかしら?
これは、わたしじゃなく、あたし
これは違う
これは?
かぎりなくわたしに近いわたし
これは、わたし
これまた、わたし
これは、さっきのと同じわたし
これまた、わたし
これも、わたし
これは、たわし
これは、違うたわし
これは、わたし
これも、わたし
これまた、わたし
これは、違うわたし
もうはじめてしまったものは仕方なく
だれがだれだかわからない
連鎖
目の前にある、いろいろなものを見て
わたしと、わたしでないものを分けていく独り遊び
とてもむなしいけれど
コーヒーカップやマウスを手にしながら
つぎつぎやっていくと
けっこう本気になる遊び

これって
友だちと言い合っても面白いかもね
あれは、きみ
これは、ぼく
そっちは、きみで
むこうのきみは、ぼく
きみの前にあるのは、ぼくで
そこのぼくは、きみだ
ってのは、どっ?
どっどっどっ?


二〇一五年三月四日 「Touch Down」


 Bob James の Touch Down を聞いてたら、20才ころに付き合った、1つ上の男の子のことを思い出してしまった。朝に、彼の親が経営してた大きな喫茶店で、二人でコーヒーを飲んでた。大坂だった。まえの夜に、出合ったばっかりだったけれど、ああ、これって青春だなって思った。どんなセックスしたのか覚えてないけれど、そのまえに付き合ってたフトシくんのことが思い出される。ラグビーで国体にも出てた青年で、ぼくより1つ下だった。SMの趣味があって、彼はSだった。ぼくにはSMの趣味がなかったから、セックスは合わなかったけれど、いまでも覚えてる。かれの声、「お尻、見せてくれる?」20才くらいのときのぼくは、「やだよ」とか「だめ」とか返事したことを憶えてる。それから何年もしてたら、「いいよ」って言えるだろうけれど、笑。ふたりで歩いてたり、飲み屋のあるエレベーターに乗ってたら、若い男女のカップルとかにジロジロ見られたけど、それももう30年くらいまえの話。なんか、一挙に、思い出しちゃった。


二〇一五年三月五日 「ちょびっと」


 きょうも、ひたすら屁をこいた。違う、せいいっぱい生きた。遊んだ。楽しんだ。日知庵で飲んでてかわいい男の子もいたし、いっしょにしゃべってたし、飲んでたし、笑。齢をとって、若いときには味わえなかった楽しみ方をしてる。恋はちょびっとになってしもたけど、ちょびっとがええのかもしれへん。


二〇一五年三月六日 「パンをくれ」


 へんな夢を見た。外国人青年の友情の物語だ。「パンをくれという率直さが彼にあったからだ。」という言葉を、ぼくの夢のなかで聞いた。ふたりの友情がつづいた理由だ。片方の青年の性格の話だ。ふたりはいっしょに暮らしていたようだ。その片方の青年が死ぬまで。長い夢だったと思うが、はしょるとこれ。


二〇一五年三月七日 「1行詩というのを考えた。」


1行詩というのを考えた。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
‥‥‥‥‥‥‥

1行詩というのを考えた。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
‥‥‥‥‥‥

1行詩というのを考えた。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
‥‥‥‥‥‥‥


二〇一五年三月八日 「ひととひとを結ぶもの、あるいは、夢と夢を結びつけるもの」


 ひととひとを結ぶのは橋でもなく川でもなく流れる水でもない。水面に浮かぶきらめきだ。それは、ただひとつの夢だ。たくさんの輝きでできている、ただひとつの夢だ。ひととひとを結ぶのは橋でもなく川でもなく流れる水でもない。川底に横たわる岩と石だ。たくさんの岩と石でできている、ただひとつの夢だ。あるいは、夢と夢を結びつけているのが、ひとなのだとも言える。ひとが、夢と夢を結びつけているのだ。それは、橋でもなく川でもなく流れる水でもない。ひとなのだ。


二〇一五年三月九日 「パラドックス」


 パラドックスは言葉であり、言葉があるからパラドックスが生じる。したがって、言葉がなければ、パラドックスは生じない。(2014年5月16日のメモ)


二〇一五年三月十日 「デブ1000」


 塾の帰りに日知庵に行った。眼鏡をかけたおデブちゃんがかわいいと言ったら、「デブ1000ですか?」と隣にいた、常連のひとに言われて、「いや、デブ1000とは言えないかも。デブだけじゃないし」とか返事してたのだけれど、一般ピープルも、デブ1000なんて言葉を知ってるんだね。いまどき。ぼくが20代前半のときに付き合ったおデブちゃんに似てた。足とか太ももとかお腹とか顔とか、ボンボンに太ってた。


二〇一五年三月十一日 「なにのさいちゅうに、いっしょうけんめい鼻の穴に指を入れようとする」


なにすんねん!
そう言って
相手の手をはらったことがあるけど
そいつったら、繰り返し何度も
ぼくの鼻の穴に指を入れてきて
横に伸ばしたりして
鼻の穴をひろげようとするから
しまいには怒って
なにどころやなくなった
ひみつ
同じ言葉やのにねえ。
ひみつ
というだけで
すべてのものが聞き耳を立てる。
すべてのものが
ぼくとのあいだに、なにかを共有する。
なにか。
きのう、帰りに
地下鉄に乗ってるときに
アイコンタクトされてたのに
気がつかないふりをしてしまった。
あまりにも、むかしの恋人に似ていたのだ。
彼はぼくより2段上のエスカレーターに立って
ぼくを振り返っていたけれど
ぼくは横を向いていた。
先に改札を出て
わざとらしく案内地図を眺めていた。
ぼくには勇気がなかった。
すべての人類から肌の色を奪う。
すべての人類から言葉を奪う。
うんうん。
そうしてくださいな。
あと、耳とか少し感じますぅw
揚子江は、どこですか?
自分以外が
みんな自分って考えて
その上で
自分だけが自分じゃないって
考えることができるのかどうか
どだろ
むずかしいね
相手のメールを読まないで
はげしくレスし合う
な~んてね
懐かしいでしょ?
ピコ
ひみつはコップを所有する。
ひみつは時計を所有する。
ひみつはスプーンを所有する。
ひみつは本を所有する。
と書くことはできる。
意味をなさないように思われるが
書くことはできる。
書くことで、なんらかの意味を形成する可能性はある。
上のままでは負荷が大きいので
言葉を替える。
ひみつは同一性を所有する。
ひみつは差異を所有する。
ひみつは矛盾を所有する。
この同一性や差異を矛盾を
わたしという言葉に置き換えてもよい。
これなら負荷はずっと少ない。
言葉の力の面白い性質のひとつに
その力が、万人に同じように働くわけではないという点がある。
負荷の大きさも、ぼくよりずっと大きいひともいるだろうし
まったく負荷とは感じないひともいるだろう。
意味をなさないようなものまで書くことができる。
と、塾からの帰り道に考えていた。
目にあまる
たんこぶ
思いつきと
思いやりが
同じ重さで痛い
同時にごめん
ふたりで並んで歩きませんか?


二〇一五年三月十二日 「ちょこっと詩論」


 ちょこっと痛いのが好き。言葉もそういうところあってね。詩人なんて、言葉責めを自分にしているようなものなんじゃないかなあ。言葉で解放されるのは、言葉自体であって、詩人は苦しめられるだけちゃうかなあ。それが、ほんものの詩人であって、ほんものの詩を書いてたらね。そんな気がする。詩や詩の才能は、ちっとも詩人を幸せにすることなんかないんじゃないかなあ。と思った。詩を書いて幸せな時期は過ぎました。


二〇一五年三月十三日 「道が道に迷う」


とてもまじめな樹があって
きちんと両親を生やす。
季節がめぐるごとに
礼儀正しい両親を生やす。
両親が生えてくる樹。
樹はときおり
自分が歩いてきた道を振り返る。
そこには光がきらきらと泳いでいて
その間を影が満たしている。
違った時間と場所と出来事の光と
違った時間と場所と出来事の影が
樹に見つめられている。
光は薄くなったり濃くなったり
影は薄くなったり濃くなったり
あった光と
なかった光が
あった影と
なかった影が
樹に見つめられている。
見るように見る。
見るように見える。
見えるように見る。
見えるように見える。
そんなことは
じつはどうでもいいことなのに
ひっかかる。
ただ、よくわからないという理由だけで
ひっかかっているような気がする。
ふつうだよ。
ふつうだったよ。
リプライズ
ふたたび現われた





違った時間に現われた
違った場所に現われた
違った出来事に現われた
無数の同じアルファベット
繰り返されることで、ようやく意味を持つ。
それが意味だから?
言葉だからといってもよい。
顔を歪める。
歪めるから顔なのだけれど
渡っているうちに長くなる橋
たどり着けないまま
道が道に迷う。
道が道と出合って迷っている。
ただ言葉が言葉に迷っているだけなのだろうけれど
意味が意味に迷っているだけなのだろうけれど
樹は自分の姿を振り返っていることに
まったく気がつかないまま
もくもくと歩いている。
「事実ばかりを見てても
 ほんとのことは、わからないよ。」
「わかるって前提で、話をされても・・・」
ここには意味しかない。
だったら、がっかり。
意味しか意味をもたない?
だったら、がっかり。
現実さえも
ただ語順を入れ換えるだけの操作で
目いっぱい。

いっぱい
なのだけれど
自分の書いているものが
よくわからないということを書くためだけに
こんなに言葉をついやすなんて
余裕でストライクゾーン
ほんとに?
サイゴン
彼女は階段ですれ違った幼い子どもの頭をなでた。
子どもは笑った。
子どもは笑わなかった。


二〇一五年三月十四日 「カメ人間」


庭にいるカメ人間に
ホースで水をかけていた。
カメ人間は
庭のそこらじゅうにいた。
つぎつぎと水をかけていった。
けさ見た夢だった。


二〇一五年三月十五日 「TCIKET TO RIDE。」


昼に、近くのイオン・モールで
いつも使っているボールペンを買おうと思って
売り場に行ったら、1本もなかった。
MITSUBISHI UM-151 黒のゲルインク
ぼくの大好きなボールペン
待ちなさい。
空白だ。
すべての人間が賢者になったとき
互いに教え合うといった行為はもうなされないのであろうか。
それとも、さらに賢者たちは、互いに教え合うのであろうか。
おそらく、そうであろう。
互いに、もっと教え合うのであろう。
賢くなることに限界はないのだ。
きみの考える天国には
きみのほかに、いったい、だれが入ることができると言うのかね?
すべてが変化する。
とどまるものは、なにひとつないという。
だから、むなしいと感じるひともいれば
だから、おもしろいと感じるひともいる。
詩を書いていると、しばしば思うのですけれど
象徴が、ぼくのことをもてあそんでいるのではないかと。
ひとが象徴をもてあそんでいるというよりは
象徴が、ひとをもてあそぶということですね。
ぼくのなかに訪れ、変化し、立ち去っていくものに
さよならを言おう。
ぼくのなかのものと恋をし、別れ、
また、別のものと恋をするものを祝福しよう。
ぼくのなかに訪れる顔はいつも新しい。
ぼくのなかで生まれ、ぼくのなかで滅んでいくもの。
言葉には喉がある。
喉にはあえぐことができる。
喉には悦ぶことができる。
喉には叫ぶことができる。
喉には苦しむことができる。
ただ、ささやくことは禁じられている。
つぶやくことは禁じられている。
沈黙することは禁じられている。
突然
小学校の教室の、ぼくの使っていた机の穴が
ぼくのことを思い出す。
ぼくの指が
その穴のなかに突っこまれ
ぼくの使っていた鉛筆が出し入れされる。
ポキッ
間違って
鉛筆を折ってしまったときのぼくの気持ちを
机の穴がなんとか思い出そうとしている。
折れた鉛筆も、自分が折られたときの
ぼくの気持ちを、ぼくに思い出させようと
ぼくの目と耳に思い出させる。
ポキッ
鉛筆が折れたときの光景と音がよみがえる。
鮮明によみがえる。
目が
耳が
顔が
折れた鉛筆に近づいていく。
ポキッ
再現された音ではなく
そのときの音そのものが
ぼくのことをはっきりと思い出した。
ここで転調する。
幻聴だ。
また玄関のチャイムが鳴った。
いちおう見に行く。
レンズ穴からのぞく。
ドアを開ける。
だれもいない。
だれもいない風景が、ぼくを見つめ返す。
だれもいない風景が、ぼくになり
ぼくは、その視線のなかに縮退し
消滅していった。
待ちなさい。
空白だ。
今年のカレンダーでは
6月が削除されている。
笑。
だれひとり入れない天国。
訪れる顔は
空白だ。
女給の鳥たちの 死んだ声が描く1本の直線、
そこで天国がはじまり、そこで天国が終わるのだ。
線上の天国。
笑。
あるいは
線状の天国


二〇一五年三月十六日 「家族烏龍茶」


器用なぐらいに不幸なひと。
真冬に熱中症にかかるようなものね。
もう鯉は市内わ。
もーっこりは市内わ。
通報!
南海キャンディーズの山里にそっくりな子だった。
竹田駅のホームで
突っ立って
いや
チンポコおっ立てて
あそこんとこ
ふくらませてて
痛っ。
かっぱえびせん2袋連続投下で
おなか痛っ。
赤い球になった少年の話を書こうとして
なんもアイデアが浮かばなかったので
マジ痛っ。


二〇一五年三月十七日 「趣味はハブラシ」


何気に
はやってんだって?
んなわけないじゃない。
ただ透明な柄のハブラシが好きで
集めてるっちゅうだけ。

べつに
ブラッシングが趣味じゃなく
むろん元気
さかさま
ときどき指先で
さら~っと触れるんだけど
うひゃひゃひゃひゃ
こいつ
笑ってる。
わけわかんないまま
ところどころ、永遠な感じで
そこはかとなく
バディは
エッグイとです。
体育会系のハブラシとか
ちまちま
親子ハブラシとかねえ
ええ、ええ
グッチョイスざましょ? 
素朴でいいと思います。
それだけにねえ
残念だわ。
生石鹸みたいに
たいがい中身丸見えだもの。
そんなこと言って
むかしの身体で出ています。
仮性だっちゅうの!
ああ、宙吊りにしたい。
あがた
宙吊りにしたい。 濡れタオル
ビュンビュン振り回して
ミキサー
死ね!
とか言って
とりあえず寝るの。


二〇一五年三月十八日 「桃太郎ダイエット」


いまのままでいいのか?
サバを読むって
年齢だけじゃないのね。
解決しちゃいます。
静けさの真ん中で
新しい気がする。
動悸が動機。
ほら
エブリバディ
わたくしを、ごらんなさい。
パッ。
ひとつ、ひっどい作品を
パッ。
ふたつ、不確かな記憶を頼りにして~
パッ。
みっつ、みんなにお披露目と
よくもまあ、遠慮なく
厚かましいわね。
はやく削除してください。
おねだりは
おねがいよりも難しい。
ぼくは
ハサミで空を
つぎつぎと割礼していく。
空は
ハフハフと
白い雲を
吸い込んでは吐く。
ハフハフと
吸い込んでは吐く。
光が知恵ならば
影もまた知恵でなければならない。
Palimpsest
くすくす
ぼくは、噂話に
膝枕。
すくすく
ぼくは、噂話に
膝枕。
機会があれば
また遊ぼね。
機械があれば
you know いつでもね。
「行かなくてもいいし。
 こうしてるだけでもいいねん。」
好き!
あつくんは?
へっ
なんで?
おねだりは
おねがいよりも難しい。
ほんまにねえ。
お友だちからでも。


二〇一五年三月十九日 「大根エネルギー」


日本語は下着ですけれど
薄着ね
笑顔に変わる
ラクダnoこぶ
堂々として
スキューバ・タイピング
パチパチ、パチパチ
トライ・ツライ・クライ
極端におしろい
旋回する田畑
最適化
ゆっくりなぐる
あきらかになぐる
みだらになぐる
うつくしい図体で
悪意はない
傷口が開く
傷口が閉じる
悪意はない
傷口が開く
傷口が閉じる
なめらかに倒れる
倒れた場所が
カーカー鳴く。
足のある帽子が
床の上に分泌物をなすりつける
はじける確信
肩の上の膝頭が恥じらい
挨拶の視線がしおれる様子
すべて録画
恍惚として
自分の首をしめる
有害な夜明け
波の上に波が
ずきずき痛むように
重なる
なじり合いながら


二〇一五年三月二十日 「全身鯛」


おれの口
こぶしがはいるんやで
言うから
右腕をそいつの口に突っこんだら
あれ
肘まで
えっ
肩まで
頭がはいって
胸まではいって
へそのところまではいって
そしたらあとは
ずる~って
全身



二〇一五年三月二十一日 「つぎの長篇詩に入れる引用」


外へ外へと飛び立つ巨大なエンジンが視界から消え
大道オープンロードとあなたが名づけたあの意識の橋梁の上を飛んでゆく
この今だ──あなたの夢幻ヴイジオンがまた私たちの計器となるのだ!
(ハート・クレイン『橋』四 ハテラス岬、東 雄一郎訳)

もちろん、ホイットマンの引用のあとに

  〇

私をわれに返す
(ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤一郎訳)

「夢」が知となる。
(ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤一郎訳)

夢は、自らが自分に架け渡した橋である。

絶妙に <自らに橋懸けるあなた> よ、ああ、<愛> よ。
(ハート・クレイン『橋』八 アトランティス、東 雄一郎訳)

「自らに橋懸けるあなた」=「愛」
「愛」=「知」
こう解釈すると、ぼくの長篇詩のテーマそのものとなる。

想像が橋がける高み
(ハート・クレイン『フォースタスとヘレネの結婚のために』三、東 雄一郎訳)

しかし、その橋脚を支えるのは、「現実」であり、「現実の認識」である。

「きれいね、こんなにきれいなものがあるなんて」
(ハート・クレイン『航海』五、東 雄一郎訳)

プイグの「神さまは、なんてうつくしいものをおつくりになったのかしら」とともに引用。

歯の痛み?
(ハート・クレイン『目に見えるものは信じられない』東 雄一郎訳)

肘の関節の痛み、側頭部の電気的なしびれ、胸の苦しみ、胃の痛み、皮膚を刺す痛み

腎炎になり人工透析を受けたときのこと、腸炎での入院体験などとともに神経症と不眠症と実母の狂気についての怖れと不安について列記すること。

  〇

松の木々を起こせ──でも松はここに目醒める。
(ハート・クレイン『煉獄』東 雄一郎訳)

水鳥を眠らせるのは、何ものか?
水鳥を目ざめさせるのは、何ものか?
水鳥を巣に運び眠らせるのは、何ものか?
水鳥を目ざめさせ巣から飛び立たせるのは、何ものか?
それが、ぼくの愛なのか、それとも、ぼくの愛が、それなのか?

Dream, dream, for this is also sooth.
(W.B.Yeats. The Song of the Happy Shepherd)

夢を見ろ、夢を、これもまた真実なのだから。
(イェイツ『幸福な羊飼の歌』高松雄一訳)

アッシュベリーやシルヴァーバーグの Dream の詩句や言葉をつづけて引用。

  〇

一羽の老いた兎が足を引きずって小道を去った。
(イェイツ『かりそめのもの』高松雄一訳)

 百丈が一人の弟子と森の中を歩いていると一匹の兎が彼らの近寄ったのを知って疾走し去った。「なぜ兎はおまえから逃げ去ったのか。」と百丈が尋ねると、「私を怖れてでしょう。」と答えた。祖師は言った。「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。
(岡倉覚三『茶の本』第三章、村岡 博訳)

ヴァレリーの「ウサギが云々」とともに引用。

 すべてが出合いだとするぼくの考え方について、出合いを受け取るときの心構えについて言及するよい例だと思われる。忘れず引用すること。

  〇

苦労せずにすぐれたものを手にすることはできない。
(イェイツ『アダムの呪い』高松雄一訳)

努力を伴わない望みは愚かしい
(エズラ・パウンド『詩篇』第五十三篇、新倉俊一訳)

誤りはすべて なにもしないことにある
(エズラ・パウンド『詩篇』第八十一篇、新倉俊一訳)

 パウンドがイェイツと交友関係にあったこと。秘書になったことがあることを思い起こすと面白い符合である。ヴァレリーの「そもそも、ソクラテス云々」を入れるとより効果的な引用になるだろう。

  〇

不運にして未来に名を持てる者たち
(エズラ・パウンド『詩篇』第八十篇、新倉俊一訳)

必ず人間も死んで分かるんだ。
(ハート・クレイン『万物のひとつの名前』東 雄一郎訳)

 イーディーのこともあるけれど、多くの芸術家が、とりわけ、時代に先がけて才能を発現した芸術家に共通することである。生きている時代には評価されなくて当然である。その時代を超えて評価されるのであるから。だから、「すべての顧みられない芸術家」に、「いま現在においては認められていない芸術家」に、このことは、こころにとめておいてもらいたいと思っている。


 二〇一五年三月二十二日 「ハート・クレインの『橋』の序詩『ブルックリン橋に寄せて』の冒頭の連の翻訳について」


How many dawns, chill from his rippling rest
The seagull's wings shall dip and pivot him,
Shedding white rings of tumult, building high
Over the chained bay waters Liberty─
(Hart Crane. To Brooklyn Bridge)

幾朝、小波の寝所に冷えとおる
鴎の翼は急降下、錐揉みさせて
白い波を投じつつ、鎖で囲われた
湾上高々と「自由」を築き接ぐや─
(ハート・クレイン『橋』序章 ブルックリン・ブリッジに寄せる歌、森田勝治訳)

 これは、『ハート・クレイン『橋』研究』にある、森田さんの訳なんだけど
原文に忠実な訳は、この人のものだけだった。どこの箇所に関して言及しているのかといえば、2行目である。ほかの訳者の翻訳部分を書き並べると

かもめの翼は さっと身をひたしては旋回に移ってゆくことだろう
(楜澤厚生訳)

鴎は翼に乗って、つと水をかすめては旋回し、
(川本皓嗣訳)

鴎は翼で躯(からだ)を浸し舞いあがってゆくのだろう、
(東 雄一郎訳)

鴎は翼で軀を濡らし 回転する
(永坂田津子訳)

 原文に忠実な訳であり、詩の大切なイマージュを翻訳しているのが、この箇所に限っていえば、森田さんの訳だけであることがわかる。ぼくが英語の詩や小説を読んでいて、もっとも自分の詩句のためになると思う書き方の一つに物主語・抽象的事物を主語にしたものがある。日本語で考えるときに、なかなか思いつかない発想なのだった。いまでは、もうだいぶ、操作できるようになったのだが、それでも、やはり、英文を読んで、まだまだ新鮮な印象を受ける。この2行目の箇所が、そのさいたるものであった。森田さんの注釈がまた行き届いたもので、たいへん読んでいて楽しい。この2行目のところの注釈を書き写すと

1. 1 “his”: は“him”(1.2)と共に鴎のこと。だが朝早くから寝呆け眼で出勤する人でもあり、次の行でカモメが空に舞い上がるが、そうは表現されておらず、翼がカモメを振り回す。寒い寝床で強ばった体が翼に引き回されれば解れるか。鳥に翼があるように、人には明日を夢見る向上心があるから、それに書き立てられて吹き晒詩の冬の橋も渡る。
1. 2 “The seagull's wings ”: これは、橋のケーブルが織り成す翼の形とも重なる。
1. 3 “white rings of tumult”: カモメが空に描く「心を掻きたてる幾重なす白い輪」、または「騒々しい白がねの響き」とでもするか。白い鳥の描く軌跡に音を聞く(共感覚、後述。“Atlantis,” 11. 3-4の項参照)。あるいは 〈ring〉を私利私欲のために徒党を組む政治ゴロの集団(例えば1858年から1871年にかけてニューヨーク市政を牛耳ったTweed Ring のような)と考えても面白い。実際この橋の建設には膨大な闇金のやりとりがあって、ローブリングを悩ませたという。(…)

 あまりにも面白過ぎるから、2行目以外のところもちょこっと引用したけれど、森田さんの注釈は、ものすごく興味深い記述に満ちていて、それでいて、詩句の勉強にもなるので、マイミクの方にも、強くおすすめします。買って損はしない本だと思います。病院の待ち時間の3時間で、5,60ページしか読めなかったけれど、原文と比較しながらなので、まあ、そんなスピードだったのだけれど、帰ってきてからも読みつづけています。ポカホンタス、出てくるよ、笑。ずっとあとでだけど。東 雄一郎さんので、全詩を翻訳で読んだけれど、ハート・クレインは、すばらしい詩を書いているなあって思った。
 ちなみに、この2行目から、つぎのような詩句を思いついた。

 たしかに、自分の知恵に振り回され、きりきり舞いさせられるというのが、人間の宿命かもしれない。どんなに機知に長けた知恵であっても、そこに信仰に似たものがなければ、すなわち、人間の生まれもった善というものを信じることができなければ、あるいは、人間がその人生において積み重ねた徳を信じることができなければ、知恵には、何ほどの値打ちもないものなのに。
 そう思う自分がいるのだけれど、しばしば、言葉に振り回されることがある。思慮深く対処すれば、その言葉の発せられた意図を汲み取ることが容易なはずなのに、浅慮のせいで、対処を誤ってしまうことが多いような気がする。
 しかしながら、あまりに深く思考することは、沈黙にしか繫がらず、ふつう、人間は、浅慮と深慮のあいだで、こころを定めるものである。偉大な精神の持ち主だけが、そういった精神の持ち主の言葉だけが、深慮にも関わらず沈黙に至ることなく、万人のこころに響く、残りつづけるものとなり、後世の人間を導くものとなるのであろう。言葉と書いたが、これを魂と言い換えてもよい。


二〇一五年三月二十三日 「トライアングル・ガール」


トライアングル・ガールのことが知りたい?
じゃあ、そのペンでいいや。
それでもって、彼女の顔をたたいてごらん。
チーンって、きれいな音がするじゃない?
それだけでも、すてきだけれど
きみがリズムをきざんでごらんよ。
世界が音楽になるから。
トライアングル・ガールたち
彼女たちが顔を合わせれば
蝶にもなるし葉っぱにもなる
蝶になれば、追っかけることもできるさ
葉っぱになれば手に触れることもできるさ
トライアングル・ガールたち
彼女たちが顔を合わせれば
花にもなるし蜜蜂の巣ともなる
花になれば、香りもかげるさ
蜜蜂の巣ともなれば蜜が満ちるのを待つこともできるさ
トライアングル・ガールたち
彼女たちが並ぶと
波にもなるし
鎖にもなる
波になればキラキラ輝くさ
鎖になれば公園で遊んだ記憶を思い出させてくれるさ
トライアングル・ガールは
ぼくのかたわらのボーイフレンドの喉にもなるし
ぼくのボーイフレンドのくぼめた手にもなる
彼女はあらゆるものになるし
あらゆる音にもなる
トライアングル・ガール
彼女の三角の顔を見てると
幸せさ
公園のブランコで
ブランコをこいでる
トライアングル・ガール
顔のなかを風がするする抜けるよ
飛び降りた彼女の顔に
まっすぐ手を入れると
手が突き抜ける
あらゆる場所に突き抜ける


二〇一五年三月二十四日 「知恵」


なぜ、地獄には知恵が生まれて
天国では知恵が死ぬのか。

地獄からは逃れようとして知恵を絞るけれど
天国からは逃れようとして知恵を絞ることがないからである。


二〇一五年三月二十五日 「歌」


まったく忘れていたのに
さわりを聴いただけで
すべての部分を思い出せる曲のように
きみに似たところが
ちょっとでもある子を目にすると
きみのことを思い出す
きみは
ぼくにとっては
きっと歌なんだね
繰返し何度も聴いた
これからも
繰返し何度も思い出す



二〇一五年三月二十六日 「なによりもうまくしゃべることができるのは」


手は口よりも、もっと上手くしゃべることができる。
目は手よりも、もっと上手くしゃべることができる。
耳は目よりも、もっと上手くしゃべることができる。


二〇一五年三月二十七日 「ハート・クレイン」


聖書学を教えてらっしゃる女性の神学者の方が
ぼくを見て、「お坊さんみたいと思っていました。」
と、おっしゃられて、このあいだ、帰りに電車でごいっしょしたのですが
アメリカに留学なさっておられたらしく
そのときの神学校が左派の学校であったらしくて
ゲイとかレズビアンの先生がカムアウトしてらっしゃって
ぼくがゲイということも、「わたし、さいきん、まわりのひとが
ゲイだとかレズビアンだとかいうことを公言するひとがたくさんいて
ふつうって、なんなのだろうって、もう、わからなくなってきました。
でも、その告白で、彼や彼女の、なにかが、それまでわからなかったところが
腑に落ちたようにわかった気がしました。」
とのことでした。
それから、先生は映画が好きとおっしゃったので、ぼくと映画談義に。
きょうも、ハート・クレインの詩集を。
『『橋』研究』を、このあいだから読んでいて
とても詳しい解説に驚かされている。
ほんものの研究書という気がする。
原文の語意や文法解説もありがたいが
クレインの触れたアメリカの歴史的な記述や
クレイン自身の日記や、身近な人間のコメントも収録していて
こんなにすばらしい本が1050円だったことに、あらためて驚く。
本の価値と、金額が、ぜんぜん釣り合わないのだ。
すばらしい本である。
湊くんは、持っていそうだから
あらちゃんには、すすめたい本である。
はまるよ。
パウンド、ウィリアムズ、メリルに匹敵する詩人だと思う。


二〇一五年三月二十八日 「みんな、犬になろう。─サン・ジョン・ペルスに─」


みんな、犬になろう。
犬になって、飼い主を
外に連れ出して
運動させてあげよう。
ときどき、かけて
飼い主を、ちょこっと走らせてあげよう。
家を出たときと
ほら、空の色が違っているよって
わんわん吠えて教えてあげよう。
みんな、犬になって
飼い主に、元気をあげよう。
ひとを元気にしてあげるって
とっても楽しいんだよ。
みんな、犬になろう。
犬になって
くんくんかぎまわって 世界を違ったところから眺めよう。
犬のほうが
地面にずっと近いところで暮らしてるから
きっと人間だったときとは違ったものが見れるよ。
尾っぽ、ふりふり
鼻先くんくんさせて
みんな、犬になろう。
犬になって
その四本の足で
地面を支えてやるんだ。
空の色が変わりはじめたよ。
さあ
みんな、犬になろう。
犬になって
飼い主に、元気をあげよう。
飼い主は、だれだっていいさ。
ためらいは、なしだよ。
犬は、ちっともためらわないんだから。


二〇一五年三月二十九日 「金魚」


きみの笑い顔と、笑い声が
真っ赤な金魚となって
空中に、ぽかんと浮いて
ひょいひょいと目の前を泳いだ。

コーヒーカップに手をのばした。

もしも
その真っ赤な金魚が
きみの喉の奥の暗闇に
きみの表情の一瞬の無のなかに
飛び込み消え去るのを
ぼくの目が見ることがなかったら
ぼくは、きみのことを
ほんの一部分、知っただけで
ぼくたちは、はじまり、終わっていただろう。

コーヒーカップをテーブルに置こうとする
ぼくの手が
陶製のコーヒーカップのように
かたまって動かなかった。

真っ赤な金魚の尾びれが
腕に触れたら
魔法が解けたように
ぼくは腕を動かすことができた。

目のまえを泳いでいる
きみの笑顔と、笑い声が
ぼくの目をとらえた。


二〇一五年三月三十日 「きみのキッスで」


たったひとつのキッスで
世界が変わることなんてことがあるのだろうか。

たったひとつのまなざしで
世界が変わるなんてことがあるのだろうか。

たったひとさわりで
世界が変わるなんてことがあるのだろうか。

あるんだよ。
あったんだよ。
きみのキッスで、世界が一変したんだ。

あるんだよ。
あったんだよ。
きみのウィンクひとつで、世界が一変したんだ。

あるんだよ。
あったんだよ。
きみのひとふれで、世界が一変したんだ。


二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」


泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませる。


ヴァリアント


泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
かわいた

泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませたのだ。


ヴァリアント


泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
いくつもの太陽を昇らせ
いくつもの太陽を沈ませる。


自由詩 詩の日めくり 二〇一五年三月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-01-24 14:00:02
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