落穂
道草次郎

「落雷」

本当はなにもいえない
脳梗塞の後遺症が残った人の
下の世話をしたとき
涙ポロポロ流して
その人俺の事怒ったっけ
俺はあの時立ち竦んで
10秒間
職務放棄した
それが俺だ


「世界の顔」


てのひらで顔を隅々まで触ってみる
世界の表面を隅々まで撫でてみる

これは目これは鼻これは口
これは台風これはチョモランマこれはイグアスの滝

じょりじょりしてる髭もある
鬱蒼とした熱帯のジャングルもある

耳からの輪郭を左手の甲でなぞってみる
水平線を朝明けの光が際立たせてゆく

人差し指の腹で下唇をつつく
コアラの爪がオーストラリア大陸にしがみ付く

小鼻を摘んで離す
富士山をつまむと

乾いた指に少し脂がつく
真っ白な冠雪が舞う

短い前髪をうえから押さえ付け
ツンドラ地帯を吹き抜ける風はやがて

そのまま下へ眼窩を感じ
桂林のタワーカルストを抜け

鼻梁を辿り
ピレネー山脈を越え

唇の湿りを抜け
南アジアの湿原を渡り

下顎まで来てとまる
南極大陸へと到達する


「灯台の」

意識を手にした手が生命を裁縫している。ブラックベリーの染みのような血液を思い描き、イギリスへ行こうと、小鳥のような器用さでみずからを埋設して。汲み尽くされた井戸の底に棚引くダークネス。洪水はことの他親密。シュタインと名のつく男の子は、そう、みんな早足と決まっている。水鶏に古書を与えよう。シナイ山は裏にあるのだから、モーセもゼラニウムもただの風景画。ウラン山脈は、未来方面に?はて。いなされた駿馬の心筋細胞を賦活させよ。息を吐きかけて、止める。その所作は所詮、笹舟に過ぎない。しののめ。須臾の時すら惜しいものだ。惑溺という野花が根を下ろすのは、深い静けさをたたえた湖や論文の中には無い。それは狂騒と礼拝、潮騒と厄災のあわいなどに溢れ勝ちだ。幾度かの春に生まれ、それをふかく身に知りすぎているから、幾度かの秋に死に、またそれをふかく穢しているから。さらば、潰瘍性の蠱毒、無味のソフィスケート。


「ヒジュラ暦1853年のテレビドラマ」

ヒジュラ暦、ヒジュラ…ヒドラ…なんかカッコイイ。ムハンマドの聖遷に伴い定められた暦とのこと。いやはや西暦換算だと25世紀中葉か。なかなかにこりゃサイエンス・フィクション作家には垂涎の字面。量子テレポート華やかなる光年の日々、星間帝国を股にかけた一大遁走劇、或いは謎の球状星団の奥深くに分け入る単眼の賞金稼ぎとその一味、反転宇宙への物見遊山、半径数百パーセク以内地球外知的生命体絶無の宇宙年代記。打ち棄てられたダイソン球の内膜で発見を待つ続ける不可解なジャイナ教遺跡群…。十字軍遠征が始まったのは、西暦1095年。初稿においてはヒジュラ暦1095年のテレビドラマとしたのだが、そうすると西暦換算で1695年らしく、それだと銀河系を射程に入れられないのでやむなく改竄。おかげで25世紀にかまけて紙幅を大分割いてしまう。


「陽は影の親」

脚の
つった地球は
傾いた独楽
舟をもちあげる海の肩は
やさしい
風は凧をあげる陶芸家
雨は角度で
意志をあらわして
陽は
影の産みの親
でも影に会うことはできず
北へ出された里子を
惜しむ親


「マンモス・グラフィティ」

先ほど町で偶然見つけた乳がん検診車。お馴染みのマンモグラフィのピンク色の車。結論から言う。二度見したのだが、二度見のうちの一度目と続く二度目のあいだに宇宙的曼荼羅は展開した。これは賭けても良いが国立国会図書館の何処かの棚には絶対に『 誤視の文化史』とか『見間違いと共時性』みたいなタイトルの本がある、はず。車でマンモグラフィの検査車とすれ違った一瞬、つまり二度見の一度見(目)の瞬間、車体側面に書かれた文字をマンモス・グラフィティと誤読してしまったのだ。二度見のうちの二度見(目)によって錯誤とそれに伴う混乱は斥けられはしたが、常識の宇宙が再び舞い戻っても哄笑めいた気分を逃がし切れず少し困った。時間にしてコンマ0.5秒にも満たない間ではあったがその印象の強烈さたるや喩えようもない。マンモス・グラフィティ。この言葉に隠されているのは、絶滅した大型哺乳類たちの驚くべき青春群像だ。人新世として未来の地質学者に区分されるであろう年代の曙に於いて、血みどろの闘いを人類と繰り広げた偉大なる牙の持ち主達の恋と友情。彼らの寂しげな瞳の中に映った澄明な原始の大気にたゆたう大麻タバコの煙と、隆起して間もないユーラシア大陸の咆哮、そこでの性と暴力、家族の絆。マンモスもハイスクールに通っていたかと思うと、さらに物語はその深みを増すのだ。


「バイオロジカル・グミ」

地球は一つの有意の天体ではない。従って、瑞々しいバイオロジカルなグミを抓む神の指も数十億年と止まない確率論の雨にふやけてしまう。別の物理法則が支配している宇宙を想像。どこまで行ってもただぼやーとした虚無が拡がるばかりの宇宙、ビックバンが起こった途端ビッククランチが起こる宇宙、ビッククランチの収縮過程が膨張の時の一兆倍緩やかな宇宙。そんな宇宙で生じる生命の進化(逆進化?)は、どこまでも遅々としてしかその歴史を逆流しないだろう。一匹の魚らしき生物が陸から海に後退りするのに40億年かかることだって有りうるのだ。愉快。


「とんちんかん」

我々が四次元の陰影をここ三次元空間に於いて見い出すように、ある別の宇宙おける螺旋状の子午線(これはもちろん比喩だが)も、グリニッジ子午線として三次元空間に投影されたものなのかも知れない。無論そうした我々には想像すらできない宇宙の何処かに存在する惑星(これも惑星という比喩を使う他ない)に、植物に似た何か、地球に繁茂しているあの緑のカーペットたちに近い何かが、どういった形で存在し得るのかは、想像の極北のさらに北に位置する事である。ましてやそのニッチたるや、ほとんど想像不可能ですらある。我々の数学の成り立たない宇宙、もしくは平生の論理の成立を拒否する別物理宇宙の子午線は、それでも螺旋(これももちろん比喩!)と言う表現を持ってしなければ、到底、この三次元的理解可能範囲に落とし込むことは不可能なのだ。ところでこの世界は二次元である。ここ、こうして文字を書き込んでいる紙面は二次元世界。二次元世界に三次元的な存在者が四次元以上(もしかしらそれは531次元かもしれないが)の次元宇宙=世界の経度についてしたためようなど、冗談を通り越してもはやとんちんかんな駄洒落以外の何物でもない。


「『サーカス』」

三島由紀夫の『サーカス』という掌編を三日ばかり探していますが見つかりません。たぶんこのまま見つからない方がよいのです。なんとなくそう思い始めています。筋は把握しているものの、いかんせん百円玉がないのです。いや、あと十円玉も。これが、この国の政治家のした事ですし、男の子たちはみんな去勢されたイソギンチャクなのです。


「音楽室」

メチルアルコールを入れなさい。そうです、席替えされた感情を少し垂らして。放課後のアコーディオンはぽろろんと鳴るので、音符に躓くふりで無意味へ倒れ込めるというわけです。君は音楽室の捕虜でしょう。音色であらゆるものが描けたら、ぜんたい、うろこ雲の行き場がないでしょう?裸婦を画架に殺したら、はい、ここは戦場。


「なんでもない、ただの」

太った雲の代打です

日々は日々にたりる分の詩の吸い飲み
空が青い
っていうとき
空も青も納得するようなそれ
というのは
仄かなうそ
ほのか


だから
肥大するものの流出を抑えらない
太った雲の代打です

ただの


「なぜ」

なんで限られたもののいろんな組み合わせでバリエーションがこうまで豊かになるのだろうそして豊かなものはなぜ留まらないのだろうそもそも留まるものはあるだろうか物質を永遠に分割していくとどうなるのだろう永遠があるだけだろうか永遠とはなんだろう永遠とは永遠とはなにかを永遠に問い続けることだろうかだとしたら何かとは何かと問うとは何だろう何かを何かと問うことは何かを永遠に問い続けることだろうか文章とは妥協だろうか語というのは打算だろうか石とはなんだろう石とはあの硬くて色々な形をしている自然界にそんざいする、あの石だろうかそれとも石とは語としてのみ立ち顕れるイメージとしての石だろうか指し示すものとイメージを喚起するものそのどちらだろう?


「挨拶を」

海へ挨拶を南洋を人知れず漂う海月へ挨拶を鳥へ挨拶を今まさに巣立ちの雛へ挨拶をクローバーへ挨拶をかえりみられぬ三つ葉の小葉へ挨拶をその角へ挨拶をその角を右へ曲がって挨拶をしあわせへ挨拶を躊躇わずしあわせへ挨拶を昨日へ挨拶を一敗地に塗れた昨日へと惜別をその惜別を添えかかる今日へと挨拶を


「自分の頭を割りたくなったら思うこと」

この頭は大した頭ではないから
覚えさせたりうまく使わせたり
しないといけない
そんな頭がぼくはやはり大好きだ
大好きなとは大嫌いみたいなものだけど
つまり
ここにこういて
こうこうこうで
こういうことならば
こういうふうでもわるくはないとか
またはそれらぜんぶの
否定でもかまわないし
ともかく
この頭は既にこの世の何処かの位置を
立派に占めているのだから
あんまり乱暴におもうのは
よくないと思う
そして何事もあんまり乱暴なのは
よくないとおもうのだ
この理屈はほじくったらなんにも出ない
温泉だ
でも
少しぬるくはあるが悪くはない


「きざはし」

みんながみんな
えらくてそうでなくて
どこに
ほんとうのきざはしがありましょう
月へ月の桃をとるためのです

さようならと
いうことの内べりに
はじめましての溝は彫られていますから
なやまず倦まず
秋は春
春も秋
寝たければねるだけなのです

人事は
風のとぐろの思う儘
とかく暖房の
快さのみが染み入ります

波紋でしか
言えないことをこうして云うことにも
波紋のやわらの皺は
そぞろ寄り
かつ
砕けます

まざまざと
それが見えます
なににか
目に有らざるもの



「二位」

金河系は
銀河系よりうえだ
銅河系は
銀河系よりしただ
金河系のまぶしさも
銅河系の雑草魂も
どこかよそよそしく感じられる
我々は
百億年以上も二位に甘んじている
ダイヤモンド系というのも別にあると
ソコハカトナク
感じながら


「不安の立像」

この不安の立像は
矩形の胸に安置されている
可笑しみの三角形の要求
明るいというのは
あからしめること
闇を照らすのではなく
闇に目を慣らすこと
輪郭を把握し
次のステップをかんがえること
とまってはならない
とまってはならない
風に
かぜに身を
風のなかに
身を
おく
尿意にしたがい
世界の血圧を下げること
ここではなく
あそこへ
どこかへ
いや
どこかではなく
ここへ
ここの
生理と渾沌の
誤嚥された月



「空について」

今、じつに多くの、それはそれは多くの何事か考えてみなければどうにもならない気持ちが堆積している様な気がする。その気持ちを詩にしたためてみようかと悩んだが空は詩にしてしまったらダメになってしまうと思った。だからこうして散文を書いている。しかし、散文にしてもダメかも知れない、とも思い始めている。そう思っていることでぼくはやっと立っている、とその言うことの中に紛れた嘘の棘を感じながら。そうやってどんどんと内面の空白地帯を歩いていくと、空は、ではどこにあるのだろうかと思う。あるいは空にまつわるありとあらゆる感情は何処へ行ったのかと。このように自分が世界からつねに遠のいていくのを感じながらも、祖先達は一体どうやって日々生きて来たのか。なんとなく、その答えは単独ではついに見い出せないような気がする。それは、幾人かの同じ体験をした者が寄り集まり、死んだ空にまずは皆で黙祷を捧げることからしか始まらない、何かではないだろうか。


「なだらかなもの」

背中の神様をおろしてみると
神様ではなくて
ただの中ぐらいの岩だった

なだらかなものなら何でも良い
目に和歌を詠んでくれるはずだ

想像はうつくしい
なで肩と山の尾根を
同時に想い浮かべることもできる
ほんとうに
それはうつくしいこと

救われていくものと
掬われていくものと

一つも見分けられず
時だけが波状に
同心を喪失しながら拡散していく


「諌言詩」

清流を泳ぐ魚
かと思いきや噴火する火山
ぶちまけられた宝石群に
爛々と燃える意味の不明
まったりした午後のあくびと
秘匿された殺意
祈りと
永遠回帰と
それらを滾々と湧く泉に貶めることこそ自分への秘かな報復

飽いた頭は脳髄を溶かし器に妖しい燐光の歌を注ぐ
だからって何なんだ
だからって何だというんだ
もう一度
それが
だからって何だっていうんだろう

精神が充溢したがりな時この肉の入れ物が鬱陶しくまた不愉快に感ずるのはそれは一種の政治的状態かもしれない
ということはつくづく本当に忘れ勝ちだ

ぼくは自分の精神のリュックを背負って行軍することなど思いもしない
ほんとにばかだしみっともない
自分に批判的になるのは容易だ
そしてそれで事足りるとふんでいるのなら大した自信家だ
なにかこう
でかいものの下でわれわれは起床し働き生活し
まみえ眠りそして祈り朽ち死ぬことをなぜ忘れてしまうのか

それは自然なんてものでも宇宙なんていうものでもない
もっと実感のあるものだそれは
薄汚い作業服だそれは
黒い瞳だそれは
穴の空いた靴下だそれは
のちうちまわる脂汗のため池だ
それは

こういうむかむかとした感情を
小手先の比喩で腐らせるのはもうよそう
立つことからしか始まらない
立ち
そして竦むことから
ぼくは百年は死んだままだろう
抗うことを忘れ牙を抜かれたチワワたち
そういうものだ
ぼくは

恥ずかしくはないか
ほくは恥ずかしい
こういうことを言うことは本当に何なんだろう
ぼくの中の何かが言わせているのか
そうではないのか
とにかく
自分の中に満たされゆくものなど
たわいのない
滓だ


「シャワア」

ダボダボと不規則に落ちる大粒の水で大雑把にゴシゴシと洗いながら、特に痒いところもない、耳の周りはもう少し念入りに、いや、しかしだめだ、面倒だ、適当になどと、頭頂へ指を走らせ、と、いつまでも治まらないでき物の膨らみ、少し痛い、これは何の兆候か、体調変化、それとも宿痾のかすかなサインか、などと、しかしそんなのは相も変わらず無視で、そんなサナカ、脳は働いているようで、今日は一日ずっとダラダラしてしまったことへの言い訳の山、ふと兆す希死念慮とそれへの罪悪感、来ない連絡、果たされない約束、見えない未来、使い古された焦慮、性への縋り、下腹部の不快感、上層では、それでも腐敗していない意識もある、サクヤ久々に読めた中編小説、再読たがエリスン『死の鳥』のいくつかの印象、それはヨブ記への返答であり、クラークへのオマージュ、ニーチェ…スラデック、勿論マーク・トウェインの影響…新奇なものイコール既製品のリサイクル、エリスンの捌きは幻惑的だが弁えているがゆえに、異質感はあまり感じられず…、相変わらず髪をぼたぼたとつたう大粒の水、壊れたシャワーヘッド、それに付随するような壊れた時間、小説世界よりもずっと味気なく、ずっと鬱陶しく、ずっと気分に左右される意識の揺らめき、カフカ、かふか、かふか、かふかを読めず、ということは何ものも読めず、ということはということは煉獄とは、煉獄とはなにか、そればかりが頻りに気にかかり、脱衣所へ。右肩の大きいなホクロ、そこから毛が一本長くのびている、消失はこの毛の消失、消失は、、、虚無と口にするこの口すらケシサル。



自由詩 落穂 Copyright 道草次郎 2021-01-18 20:38:53
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