破壊と構築について
アラガイs
とある公共放送の番組で二本のドキュメンタリーをみた。ひとつは海外で創作活躍をしている画家ともう一つは日本で人気のあるバンドメンバーの音楽家だ。そのどちらも若いクリエイティブな創作家であることには違いないのだが、番組の終わりに際してふと疑問点を感じてしまった。無論彼らが目指すものは芸術という魔法で、今までに聴いたことのない刺激的な音楽や、観たこともない多彩な色調の絵なのだろう。彼らは言動でそう主張する。が、しかしその楽曲作りと出来上がった絵画を眺めているうちに、本当にこれでいいのだろうかという戸惑いは否定できなかった。というのも作りあげようと苦悩している音楽も、仲間たちを加えて新たな絵画作りを創作をしているその姿にしても、私にはどこかで聴いたことも観たこともあるよ。という記憶がよみがえるだけなのである。破壊と構築について。このことは今を主流とした若い創作家芸術家たちの間でも流行りの文句ではあるが、破壊と構築、これは結果繰り返されるという点においては今も昔も同じことではないのだろかと。などと考えてみたくもなるのだ。
真の破壊とは、そして構築とは一体如何なるものだろうかと。
その昔ビートルズはアルバム「サージェント.ペパーズ.ロンリー.ハーツ.クラブバンド」において自らが慣れ親しんだ楽曲の音作りを打ち壊してみせた。
そして、今まさに絵画を打ち壊して魅せようとしているのはバンクシーが覆面で行っている創作活動ではないのだろうか。
ビートルズのアルバム「サージェントペパーズ~」は従来のファンを大いに戸惑わせた。結果離れていったミーハーなファンは多かった。当然ビートルズ自身にも予測はできたのだが、彼らは真の破壊と構築に向き合ったのだと思う。今ではアルバムの評価も皆さんご承知のとおりである。
そしてもう一方のバンクシーである。彼の書く画は額縁という空間を超えて時と場所を選ばない。否、実際は選んでいるのだ。いつ消されてもおかしくない。という空間である。
そのことから考えてみれば、このビートルズの破壊的な革命とバンクシーの革命的な創作活動は構築という概念を覆してしまった。
芸術において本来の目的とはその形づくりである。そしてカタチとは紙幣でもなければそのことから得られる価値でもない。ビートルズとバンクシーの破壊と構築。その両方に共通して云えるのはいままで誰も手をつけられなかった手法。それは結果残さない遺らないでいい。とさえ主張にみられる点ではないのだろうか。