S氏の記録(短編小説)
月夜乃海花
「人の顔がのっぺらぼうなんです。それに気づいたのは3日前か、1週間前か、いやそんなことはどうでも良いんです。だから、人の顔が何も無いんです。まず、顔が無いと気づいたのは友人Sと会ったときのことです。いつものように通知が来てたので、また金でもせがまれるのかと考えながら、公園に向かったんです。はぁ。公園に向かう最中に他の人の顔は見なかったのか、と?こっちは自転車を漕いで必死だったんですよ。なんせ、脅し文句までつけて『あと1時間以内に来なかったら、俺は死ぬ』とかまた言ってるんですから。あいつ、本当にやるときはやるんですよ。あ、そう、あいつが病院に入ったときの話しましたっけ?今は良いですか?そうですか。自転車で公園に着いたらベンチに座ってるんですよ。とりあえず煙草でも吸おうかと思って、ポケットに入ってるセブンスターを探して、煙草に火を付けたんですよ。そうしたら、Sがこっち向いて手を振っていました。Sのスマホの光のせいか何か違和感を感じたんですよ。Sが近づいてきて、『よお』と言った瞬間ですよ。Sには顔が無かったんです。俺、疲れてるのかなと思って、何回も瞬きしてもSの顔は変わらないじゃないですか。人って本当に驚くと声が出なくなるんですね。俺は驚きながらも何も言えなかったんですよ。『どうしたんだよ』、『じろじろ見んなよ気持ち悪い』、発声する時だけSの口はがあ、と開くんです。まるで何かを捕食するようにがあ、があと。余りにも恐ろしくて、その時は自転車に乗って逃げました。そして、家について煙草を何本か吸って寝ましたよ。次の日からです。周りの人間がみんな同じようにまっさらのつるつるの粘土のように顔が無いのです。それでも、最低限の個性を発するように口が開くときちんと台詞は聞こえるんです。でも、それに集中できなくて。だから、声だけではなく、顔以外の服装で判断することにしました。ですが、それでも限界はありました。人が多いところに行けば行くほど、同じような粘土人間が歩いてるんです。同じ服を着て、スマホを弄る者もいれば誰かと話してる者も居るけれど、同じなんです。同じ、同じなんです。ああああああああ!きっと、俺はついに頭がおかしくなったんだと病院に行くことにしました。でも、案の定、看護婦も医者も同じことを言います。『貴方は疲れてるから休みなさい、休めば治りますから』、俺は疲れてませんし、強いて言うならお前らが同じだから疲れるんだと言いたいのをぐっと堪えて処方された薬を飲みます。それでも、人はのっぺらぼうじゃないですか。しばらく、誰の顔も見たくないから部屋から出るのを辞めました。ネットでSNSでもずっと見ていようと思ったんです。そしたら、面白いことに同じ話題に同じ反応をして台詞がのっぺらぼうだということに気付きました。ネットでは文章しか見えないから楽だと思ったのに、逆効果でした。気持ち悪いくらいに同じ、なのです。誰かが死んだら、勝手に悲しいと言い出して数時間後にはウケると笑って、ただそれだけですよ。政府は何もしない、こうあるべきだ、混沌とした単純な台詞がたらたらと並んでいてまるで事典をあいうえお順から淡々と読んでいるようでだんだん吐き気がして、トイレで吐きました。といっても、唾しか吐き出せませんでしたが。しばらく、ベッドに座って窓を見たら雪が降っていてそういえばそんな時期かぁ、なんて思って親に電話したくなって。久々に親に電話しました。親と電話したら、声はきちんとそのままで安心しました。安心してその時、久々に号泣しました。『どうしたの、帰ってきても良いからね』という声を聞いた途端に自分の中で何かが破裂したようでした。肺の中の嚢胞が破裂し続けるように周りの人間がのっぺらぼうであることを伝えました。気づけば、電話は勝手に切れていました。ああ、やってしまったと後悔しました。いつもこうなんです。時々、何かが引きちぎれて、そのまま汚い言葉や思想が零れて人にぶつけてしまうんです。また、やってしまった。とあの日はずっと泣き続けました。その後、数日は何もしませんでした。確か、あの頃そういえば夢を見ました。人がレールに寝そべっているのです。するとレール近くの兵士が合図をします。レールの人はそのまま、焼却炉に入って真っ黒ののっぺらぼうになるんです。そして、『これで何も考える必要もなくなった』、『楽になった』、『Você e eu somos da mesma maneira.』、『This is good!』、『你也是这样的』、そうですよ。日本語だけじゃないんですよ。きちんと覚えているの、すごいでしょう。僕の特技なんです。どうかしましたか?まあいいや。そういえば、俺って自分の顔ってどうなってるんだろうと思ったんですよ。鏡を見たんです。ああ、何で気づかなかったんだろうと思いました。僕の顔が1番何もありませんでした。口すらもありませんでした。ただ、スウェットを来た何かが鏡の前で突っ立っているだけです。そして思いました。この顔に傷はつくのか?ずっと疑問でした。だから、近くの剃刀で軽く顔に傷をつけてみたんです。すると、真っさらな顔に赤い線が付いて、たらり、と赤い液体が流れました。これで僕は人間なのだと認識できました。ああ!化け物なんかじゃない!あいつら、のっぺらぼうと違う!俺は人間だ!俺は人間だ!俺は、?そういえば、僕って誰でしたっけ。まあいいか。もういいか。大したことないですもんね。みんな燃えて死ぬんだから。良いですよね。面倒だし。あはは!ああ、もちろん『貴方』の顔ものっぺらぼうですよ。でも、口の動きで困惑してることくらいはわかります。良いんです。それで良いんです。それでこそ、人間ですから、良いじゃないですか。もう良いじゃないですか。終わりにしましょうよこんな話。もう俺、疲れたんで。」
以上、S氏の某日のIクリニックにおける最終録音記録である。録音の許可はS氏に医師と心理士が許可を取っており、今回この公開については医師に許可を得た者である。彼女は録音通り、人の顔が見えないと言っていたが、よく話を聞くと矛盾があり、また友人Sは存在しないことが判明した。彼女の両親は彼女が5歳の頃に焼死している。また、その際に救出されたS氏の身体や顔には大きなケロイドが残っていた。S氏はこの最終記録の数日後に住んでいたアパートの火事で焼死した。原因は煙草の消し忘れであるということがわかった。クリニックの医師によるとS氏は様々な疾患を持ち合わせていると言える、いやそれしか言いたくないと黙り込んでしまった。最後に医師は気持ち悪かった、とだけ言った。
これがS氏の記録である。
ところでこの記録を書いている私は誰なのだろうか。もはや、そんなことはどうでも良いのだが。