詩の日めくり 二〇一四年九月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一四年九月一日 「変身前夜」

 グレゴール・ザムザは、なるべく音がしないようにして鍵を回すと、ドアのノブに手をかけてそっと開き、そっと閉めて、これまた、なるべく音がしないようにして鍵をかけた。家のなかは外の闇とおなじように暗くてしずかだった。父親も母親も出迎えてはくれなかった。妹のグレーテも出迎えてはくれなかった。もちろん、こんなに遅くなってしまったのだから、先に寝てしまっているのだろう。父親も母親も、もう齢なのだから。しかも、ぼくのけっして多くはない給料でなんとか家計をやりくりしてくれているのだから、きっと気苦労もすごくて、ぼくが仕事を終えて遅くなって帰ってくるころには、その気苦労のせいで、ふたりの身体はベッドのくぼみのなかにすっぽりと包みこまれてしまっているにちがいない。申し訳ないと、こころから思っている。こんな時間なのだから。妹のグレーテだって、眠気に誘われて、ベッドのなかで目をとじていることだろう。グレゴールは自分の部屋のなかに入ると、書類がぎっしり詰まっている鞄を机のうえに置いて、服を着替えた。すぐにでも眠りたい、あしたの朝も早いのだから、と思ったのだが、きょう訪問したところでの成果を、あした会社で報告しなければならないので、念のためにもう一度見直しておこうと思って、机のうえのランプに火をつけると、その灯かりのもとで、鞄のなかから取り出した報告書に目を通した。セールスの報告は、まずそれがよい結果であるのか、よくない結果であるのかを正確に判断しなければならず、そのうえ、その報告の順番も大事な要素で、その報告する順番によっては、自分に対する評価がよくもなり、よくなくもなるのであった。グレゴールは報告する事項の順番を決めると、その順番に、こころのなかで、上司のマネージャーに伝えるべきことを復唱した。朝にもう一度目を通そうと思って、机のうえに書類を置いてランプの火を消すと、グレゴールはベッドのなかに吸い込まれるようにして身を横たえた。グレゴールは知らなかったし、もちろん、グレゴールの両親も、彼の妹も知らなかったし、彼らが住んでいる街には、だれ一人知っているものはいなかったのだが、先月の末に焼失した大劇場跡に一台の宇宙船が着陸したのだった。宇宙船といっても、小さなケトルほどの大きさの宇宙船だった。宇宙船は、ちょうどグレゴールがすっかり眠り込んだくらいの時間に到着したのであった。到着するとすぐに、宇宙船のなかから黒い小さなかたまりが数多く空中に舞い上がっていった。その黒い小さなかたまりは、一つ一つがすべて同じ大きさのもので、まるで甲虫のような姿をしていた。グレゴールの部屋の窓の隙間から、そのうちの一つの個体が侵入した。それは眠っているグレゴールの耳元まで近づくと、昆虫の口吻のようなものを伸ばして、グレゴールの耳のなかに挿入した。彼はとても疲れていて、そういったものが耳の穴のなかに入れられても、まったく気づくこともなく目も覚まさなかった。昆虫や無脊椎動物のなかには、獲物にする動物が気がつかないように、神経系統を麻痺させる毒液を注入させてから、獲物の体液を吸い取るものがいる。この甲虫のような一つの黒い小さなかたまりもまた、グレゴールの内耳の組織に神経を麻痺させる毒液を注入させて毒液が効果を発揮するまでしばらくのあいだ待ち、昆虫の口吻のようなものを内耳のなかからさらに奥深くまで突き刺した。そうして聴力をも無効にさせたあと、その黒い小さなかたまりはグレゴールの脳みそを少しすすった。すると、自分のなかにあるものを混ぜて、ふたたびグレゴールの脳みそのなかにそれを吐き出した。それは呼吸のように繰り返された。すする量が増すと、吐き出される量も増していった。そのたびに、黒い小さなかたまりは、すこしずつ大きさを増していった。もしもそのとき、グレゴールに聴力があれば、自分の脳みそがすすられ、そのあとに、もとの脳みそではないものが、自分の頭のなかに注入されていく音を聞くことができたであろう。「ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー。」という音を。「ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー。」という音を。交換は脳みそだけではなかった。肉や骨といったものもどろどろに溶かされ、黒いかたまりに吸収されては吐き戻されていった。そのたびに、黒い小さなかたまりは大きくなり、グレゴールの身体は小さく縮んでいった。やがて交換が終わると、黒い小さなかたまりであったものは人間の小さな子どもくらいの大きさになり、グレゴールの身体であったものは段ボールの箱くらいの大きさになっていた。すべてがはじまり、すべてが終わるまでのあいだに、夜が明けることはなかった。もとは黒い小さなかたまりであったがいまでは透明の翅をもつ妖精のような姿をしたものが、手をひろげて背伸びをした。妖精の身体はきらきらと輝いていた。太陽がまだ顔をのぞかせてもいない薄暗闇のなかで、妖精の身体は光を発してきらきらと輝いていた。妖精が翅を動かして空中に浮かびあがると、机のうえに重ねて置いてあった書類の束がばらばらになって部屋じゅうに舞い上がった。妖精は窓辺に行き、その小さな手で窓をすっかりあけきると、背中の翅を羽ばたかせて未明の空へと飛び立った。もとはグレゴールであったがいまでは巨大な黒い甲虫のようなものになった生き物は、まだ眠っていた。もうすこしして太陽が顔をのぞかせるまで、それが目を覚ますことはなかった。

二〇一四年九月二日 「言葉の重さ」

水より軽い言葉は
水に浮く。

水より重い言葉は
水に沈む。

二〇一四年九月三日 「問題」

 1秒間に、現実の過去の3分の1が現実の現在につながり、その4分の1が現実の未来につながる。現実の過去の3分の2が現実の現在につながらず、その現実の現在の4分の3が現実の未来につながらない。1000秒後に、いま現実の現在が、現実の過去と現実の未来につながっている確率を求めよ。

二〇一四年九月四日 「うんこ」

 西院のブレッズ・プラスというパン屋さんでBLTサンドイッチのランチセットを食べたあと、二階のあおい書店に行くと、絵本のコーナーに、『うんこ』というタイトルの絵本があって、表紙を見たら、「うんこ」の絵だった。むかし、といっても、30年ほどもまえのこと、大阪の梅田にあったゲイ・スナックで、たしかシャイ・ボーイっていう名前だったと思うけど、そこで、『うんこ』というタイトルの写真集を見たことがあった。うんこだらけの写真だった。若い女の子がいろんな格好でうんこをして、そのうんこを男が口をあけて食べてる写真がたくさん載ってた。芸術には限界はないと思った。いや、エロかな。エロには限界がないってことなのかな。そいえば、「トイレの落書き」を写真に撮った写真集も見たことがあった。バタイユって、縛り付けた罪人を肉切り包丁で切り刻む中国の公開処刑の写真を見て勃起したみたいだけど、あ、エロスを感じたって書いてただけかもしれないけれど、人間の性欲異常ってものには限界がないのかもしれないね。20代のころ、夜、葵公園で話しかけた青年に、初体験の相手のことを訊いたら、「犬だよ。」と答えたので、「冗談?」って言うと、首をふるから、びっくりして、それ以上、話をするのをやめたことがあるけど、いまだったら、じっくり聞いて、あとでそのことを詩に書くのに、もったいないことをした。ちょっとやんちゃな感じだったけど、体格もよくって、顔もかわいらしくて、好青年って感じだったけど、犬が初体験の相手だというのには、ほんとにびっくりした。ぼくは性愛の対象としては人間にしか興味がないので、他の動物を性欲の対象にしているひとの気持ちがわからないけれど、まあ、人間より犬のほうが好きってひとがいても、ぼくには関係ないから、どうでもいいか。えっ、でも、それって、もしかすると、動物虐待になるのかな。動物へのセックスの強要ってことで。同意の確認があればいいのかな。どだろ。ところで、そいえば、ゲイやレズビアンの性愛とか性行為なんか、もうふつうに文学作品に描かれてるけど、動物が性対象の小説って、まだ読んだことがないなあ。あるんやろうか。あるんやろうなあ。ただぼくが知らないだけで。

二〇一四年九月五日 「イエス・キリスト」

 きょう、仕事帰りに、電車のなかで居眠りしてうとうとしてたら、そっと手を握られた。見ると、イエス・キリストさまだった。「元気を出しなさい。わたしがいつもあなたといっしょにいるのだから。」と言ってくださった。はいと言ってうなずくと、すっと姿が見えなくなった。ありゃ、まただれかのしわざかなと思って周りを見回すと、何人か、あやしいヤツがいた。

二〇一四年九月六日 「本」

 地面は本からできている。本のうえをぼくたちは歩いている。木も本でできているし、人間や動物たちも、鳥や魚だって、もともとは本からできている。新約聖書の福音書にも書かれてある。はじめに本があった。本は言葉あれと言った。すると言葉があった。本の父は本であり。その本の父の父も本であり、その本の父の父の父も……

二〇一四年九月七日 「カインとアベル」

 カインはアベルを殺さなかった。カインのアベルを愛する愛は、カインのアベルを憎む憎しみより強かったからである。そのため人間の世界では、文明が発達することもなく、文化が起こることもなかった。人間には、音楽も詩も演劇もなかった。ただ祈りと農耕と狩猟の生活が、人間の生活のすべてであった。

二〇一四年九月八日 「存在の卵」

二本の手が突き出している
その二本の手のなかには
ひとつずつ卵があって
手の甲を上にして
手をひらけば
卵は落ちるはずであった
もしも手をひらいても
卵が落ちなければ
手はひらかれなかったのだし
二本の手も突き出されなかったのだ

二〇一四年九月九日 「生と死」

 みんな死ぬために生きていると思っているようだが、みんな生きるために死んでいるのである。

二〇一四年九月十日 「尊厳詩法案」

 今国会に、詩を目前にして、なかなかいきそうにないひとに、苦痛のない詩を与えて、すみやかにいかせる、という目的の「尊厳詩法案」が提出されたそうだ。

二〇一四年九月十一日 「チュー」

 けさ、ノブユキとの夢を見て目が覚めた。ぼくと付き合ってたときくらいの二人だった。ぼくの引っ越しを手伝ってくれてた。あと3年、アメリカにいるからって話だった。じっさい、ノブユキは付き合ってたとき、アメリカ留学でシアトルにいた。シアトルと日本とのあいだで付き合ってたのだ。ぼくが28才と29才で、ノブユキは21才と22才だった。夢中で好きになること。好き過ぎて泣けてしまったのは20代で、しかもただ一度きりだった。ぼくが29才の誕生日をむかえて何日もたってなかったと思うけど、そんな日に、ノブユキから、「ごめんね。別れたい。」と言われた。アメリカからの電話でだった。どうやら、むこうで新しい恋人ができたかららしい。「その新しい恋人と、ぼくとじゃ、なにが違うの?」って聞くと、「齢かな。ぼくと同い年なんだ。」との返事。そのときには涙は出なかった。齢のことなら、仕方ないよなって思った。「いいよ。それできみが幸せなら。」そう返事した。涙が出たのは、別れたんだと思って、いろいろ思い出して、三日後。好きすぎて泣けてしまったのだと思う。別れてから8年後に、偶然、ノブユキと大阪で出合ったことを、國文學に書いたことがあった。あるとき、ノブユキに、「なに考えてるか、すぐにわかるわ。」と言われたけど、ぼくには自分がなにを考えているのかわからなかった。なんか考えてるだろうって、友だちからときどき言われるんだけど、なにも考えてないときに限って言われてる、笑。きょうの昼間、買い物に出たら、「あっちゃん!」って言われたから、振り返ったら、すこしまえに付き合ってた男の子が笑っていた。「いっしょにご飯でも食べる?」と言うと、「いいよ。」と言うので、マクドナルドでハンバーガーのランチセットを買って、部屋に持ち帰って、いっしょに食べた。食べたあと、チューしようとしたら、反対にチューされた。

二〇一四年九月十二日「普通と特別」

ふつうのひとも、とくべつなひとだ。とくべつなひとも、ふつうのひとだ。

二〇一四年九月十三日 「確率生物」

「確率生物研究所」というところがイギリスにはあって、そこで捕獲されたかもしれない「雲蜘蛛」という生物がちかぢか日本にも上陸するかもしれないという。なんでも、水でできた躰をしているかもしれず、水でできた糸を編んで巣を張るかもしれないらしい。部屋に戻って、パソコンつけて、ツイッター見てたら、そんな記事がツイートで流れていて、ふと、なにかが落ちるのを感じて振り返った。部屋の天井の隅に、小さな雲が浮かんでいて、しょぼしょぼ水滴を落としてた。これか、これが雲蜘蛛なんだなって思った。見てたら、ゴロゴロ鳴って、小さな稲妻をぼくの指のさきに落とした。ものすごく痛かった。しばらくしてからもビリビリしていた。

二〇一四年九月十四日 「真実と虚偽」

 真実から目をそらすものは、真実によって目隠しされる。虚偽に目を向けるものは、虚偽によって目を見開かされる。

二〇一四年九月十五日 「湖上の吉田くん」

湖の上には
吉田くんが一人、宙に浮かんでいる

吉田くんは
湖面に映った自分と瓜二つの吉田くんに見とれて
動けなくなっている

湖面は
吉田くんの美しさに打ち震えている

一人なのに二人である
あらゆる人間が
一人なのに二人である

湖面が分裂するたびに
吉田くんの数が増殖していく

二人から四人に
四人から八人に
八人から十六人に

吉田くんは
湖面に映った自分と瓜二つの吉田くんに見とれて
動けなくなっている

無数の湖面が
吉田くんの美しさに打ち震えている

どの湖の上にも
吉田くんが
一人、宙に浮かんでいる

二〇一四年九月十六日 「戴卵式」

12才になったら
大人の仲間入りだ
頭に卵の殻をかぶせられる
黄身が世の歌を歌わされる
それからの一生を
卵黄さまのために生きていくのだ
ぼくも明日
12才になる
とても不安だけど
大人といっしょで
ぼくも卵頭になる
ざらざら
まっしろの
見事なハゲ頭だ

二〇一四年九月十七日 「「無力」についての考察」

力のない無力は無であり、無のない無力は力である。

二〇一四年九月十八日 「詩集」

 タクちゃんに頼んで、京都市中央図書館に、ぼくの詩集の購入リクエストをしてもらって、いままで何冊か購入してもらってたんだけど、きょう、タクちゃんちに、京都市中央図書館のひとから電話がかかってきて、借り出すひとが皆無だったそうで、田中宏輔の詩集は、京都市中央図書館では二度と購入しませんと言われたらしい。購入したって図書館から通知がきたら、借り出すようにタクちゃんに言っておけばよかったなと思った。

二〇一四年九月十九日 「指のないもの」

 指のない街。指のない風景。指のない手。指のない足。指のない胸。指のない頭。指のない腰。指のない机。指のない携帯。指のない会話。指のない俳句。指のない酒。指のないコーヒー。指のないハンカチ。指のない苺。

二〇一四年九月二十日 「指のないひと」

 そいえば、むかしちょこっと会ってたひと、どっちの手か忘れたけど、どの指かも忘れたけど、指のさきがなかった。どうしてって訊くと、「へましたからや。」って言うから、そうか、そういうひとだったのかと思ったけど、お顔はとてもやさしい、ぽっちゃりとした、かわいらしいひとだった。背中の絵は趣味じゃなかったけど。

二〇一四年九月二十一日 「緑がたまらん。」

「えっ、なに?」と言って、えいちゃんの顔を見ると、ぼくの坐ってるすぐ後ろのテーブル席に目をやった。ぼくもつい振り返って見てしまった。柴田さんという68才になられた方が、向かい側に腰かけてた若い女性とおしゃべりなさっていたのだけれど、その柴田さんがあざやかな緑のシャツを着てらっしゃってて、その緑のことだとすぐに了解して、えいちゃんの顔を見ると、もう一度、
「あの緑がたまらんわ~。」と。
 笑ってしまった。えいちゃんは、ぜんぜん内緒話ができない人で、たとえば、ぼくのすぐ横にいる客のことなんかも、「あ~、もう、うっとしい。はよ帰れ。」とか平気でふつうの声で言うひとで、まあ、だから、ぼくは、えいちゃんのことが大好きなのだけれど、ぜったい柴田さんにも聞こえていたと思う、笑。ぼくはカウンター席の奥の端に坐っていたのだけれど、しばらくして、八雲さんという雑誌記者のひとが入ってきて、入口近くのカウンター席に坐った。以前にも何度か話をしたことがあって、腕とか、とくに鼻のさきあたりが強く日に焼けていたので、
「焼けてますね。」
と声をかけると、
「四国に行ってました。ずっとバイクで動いてましたからね。」
「なんの取材ですか?」
「包丁です。高松で、包丁をといでらっしゃる方の横で、ずっとインタビューしてました。」
ふと、思い出したかのように、
「あ、うつぼを食べましたよ。おいしかったですよ。」
「うつぼって、あの蛇みたいな魚ですよね。」
「そうです。たたきでいただきました。おいしかったですよ。」
「ふつうは食べませんよね。」
「数が獲れませんから。」
「見た目が怖い魚ですね。じっさいはどうなんでしょう? くねくね蛇みたいに動くんでしょうか?」
「うつぼは底に沈んでじっとしている魚で、獰猛な魚なんですよ。毒も持ってますしね。 近くに寄ったら、がっと動きます。ふだんはじっとしてます。」
「じっとしているのに、獰猛なんですか?」
「ひらめも、そうですよ。ふだんは底にじっとしてます。」
「どんな味でしたか?」
「白身のあっさりした味でした。」
「ああ、動かないから白身なんですね。」
「そうですよ。」
 話の途中で、柴田さんが立ち上がって、こちらに寄ってこられて、ぼくの肩に触れられて、
「一杯、いかがです?」
「はい?」
と言って顔を見上げると、陽気な感じの笑顔でニコニコなさっていて
「この人、なんべんか見てて、おとなしい人やと思ってたんやけど、この人に一杯、あげて。」と、マスターとバイトの女の子に。
マスターと女の子の表情を見てすかさず、
「よろしいんですか?」
と、ぼくが言うと、
「もちろん、飲んでやって。きみ、男前やなあ。」
と言ってから、連れの女性に、
「この人、なんべんか合うてんねんけど、わしが来てるときには、いっつも来てるんや。で、いっつも、おとなしく飲んでて、ええ感じや思ってたんや。」
と説明、笑。
「田中といいます、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
みたいなやりとりをして、焼酎を一杯ごちそうになった。
えいちゃんと、八雲さんと、バイトの女の子に、
「朝さあ。西院のパン屋さんで、モーニングセット食べてたら、目の前をバカボンのパパみたいな顔をしたサラリーマン風のひとが、まあ、40歳くらいかな。そのひとがセルフサービスの水をグラスに入れるために、ぼくの目の前を通って、それから戻って、ぼくの隣の隣のテーブルでまた本を読み出したのだけれど、その表紙にあったタイトルを見て、へえ? って思ったんだよね。『完全犯罪』ってタイトルの小説で、小林泰三って作者のものだったかな。写真の表紙なんだけど、単行本だろうね。タイトルが、わりと大きめに書かれてあって、ぼくの読んでたのが、P・D・ジェイムズの『ある殺意』だったから、なんだかなあって思ったんだよね。隣に坐ってたおばさんの文庫本には、書店でかけられた紙のカバーがかかってて、タイトルがわからなかったんだけど、ふと、こんなこと思っちゃった。みんな朝から、おだやかな顔をして、読んでるものが物騒って、なんだかおもしろいなって。」
「隣のおばさんの読んでらっしゃった本のタイトルがわかれば、もっとおもしろかったでしょうね。」
と、バイトの女の子。
「そうね。恋愛ものでもね。」
と言って笑った。
緑がたまらん柴田さんが
「横にきいひんか?」
とおっしゃったので、柴田さんの坐ってらっしゃったテーブル席に移動すると、マスターが、
「田中さんて、きれいなこころしてはってね。詩を書いておられるんですよ。このあいだ、この詩集をいただきました。」
と言って、柴田さんに、ぼくの詩集を手渡されて、すると、柴田さん、一万円札を出されて、
「これ、買うわ。ええやろ。」
と、おっしゃったので、
「こちらにサラのものがありますし。」
と言って、ぼくは、リュックのなかから自分の詩集を出して見せると、マスターが受け取った一万円札をくずしてくださってて、
「これで、お買いになられるでしょう。」
と言ってくださり、ぼくは、柴田さんに2500円いただきました、笑。
「つぎに、この子の店に行くんやけど、いっしょに行かへんか?」
「いえ、もうだいぶ酔ってますので。」
「そうか。ほなら、またな。」
すごくあっさりした方なので、こころに、なにも残らなくて。
 で、しばらくすると、柴田さんが帰られて、ぼくはふたたび、カウンター席に戻って、八雲さんとしゃべったのだけれど、その前に、フランス人の観光客が二人入ってきて、若い男性二人だったのだけれど、柴田さん、その二人に英語で話しかけられて、バイトの女の子もイスラエルに半年留学してたような子で、突然、店のなかが国際的な感じになったのだけれど、えいちゃんが、柴田さんの積極的な雰囲気を見て、「すごい好奇心やね。」って。ぼくもそう思ってたから、こくん、とうなずいた。女性にはもちろん、ほかのことにも関心が強くって、 人生の一瞬一瞬をすべて楽しんでらっしゃるって感じだった。
 柴田さん、有名人でだれか似てるひとがいたなあって思ってたら、これを書いてるときに思いだした。増田キートンだった。
八雲さんが
「犬を集めるのに、みみずをつぶしてかわかしたものを使うんですよ。 ものすごく臭くって、それに酔うんです。もうたまらんって感じでね。」
「犬もたまらんのや。」
と、えいちゃん。 このとき、犬をなにに使うのかって話は忘れた。なんだったんだろう? すぐにうつぼの話に戻ったと思う。あ、ぼくが戻したのだ。
「うつぼって、どうして普及しないのですか?」
と言うと、
「獲れないからですよ。偶然、網にかかったものを地元で食べるだけです。」
 このあと、めずらしい食べ物の話が連続して出てきて、その動物たちを獲る方法について話してて、うなぎを獲る「もんどり」という仕掛けに、サンショウウオを獲る話で、「鮎のくさったものを使うんですよ。」という話が出たときに、また、えいちゃんが
「サンショウウオもたまらんねんなあ。」
と言うので、
「きょう、えいちゃん、たまらんって、四回、口にしたで。」
と、ぼくが指摘すると、
「気がつかんかった。」
「たまらんって、語源はなんやろ?」
と言うと、
八雲さんが
「たまらない、こたえられない、十分である、ということかな。」
ぼくには、その説明、わからなくって、と言うと、八雲さんがさらに、
「たまらない。もっと、もっと、って気持ち。いや、十分なんだけど、もっと、もっとね。」
 ここで、ぼくは、自分の『マールボロ。』という詩に使った「もっとたくさん。/もうたくさん。」というフレーズを思い出した。八雲さんの話だと、サンショウウオは蛙のような味だとか。ぼくは知らん。 どっちとも食べたことないから。
「あの緑がたまらん。」
ぼくには、えいちゃんの笑顔がたまらんのやけど、笑。
 そうそう。おばさんっていうと、朝、よくモーニングを食べてるブレッズ・プラスでかならず見かけるおばさんがいてね。ある朝、ああ、きょうも来てはるんや、と思って、学校に行って、仕事して、帰ってきて、西院の王将に入って、なんか定食を注文したの。そしたら、そのおばさん、ぼくの隣に坐ってて、晩ごはん食べてはったのね。びっくりしたわ~。人間の視界って、180度じゃないでしょ。それよりちょっと狭いかな。だけど、横が見えるでしょ。目の端に。意識は前方中心だけど。意識の端にひっかかるっていうのかな。かすかにね。で、横を向いたら、そのおばさんがいて、ほんと、びっくりした。 でも、そのおばさん、ぜったい、ぼくと目を合わせないの。いままで一回も目が合ったことないの。この話を、日知庵で、えいちゃんや、八雲さんや、バイトの女の子にしてたんだけど、バイトの子が、「いや、ぜったい気づいてはりますよ。気づいてはって、逆に、気づいてないふりしてはるんですよ。」って言うのだけど、人間って、そんなに複雑かなあ。あ、このバイトの子、静岡の子でね。ぬえって化け物の話が出たときに、ぬえって鳥みたいって言うから、
「ぬえって、四つ足の獣みたいな感じじゃなかったかな?」
って、ぼくが言うと、八雲さんが
「二つの説があるんですよ。鳥の化け物と、四つ足の獣の身体にヒヒの顔がついてるのと。で、そのヒヒの顔が、大阪府のマークになってるんですよ。」
「へえ。」
って、ぼくと、えいちゃんと、バイトの子が声をそろえて言った。なんでも知ってる八雲さんだと思った。
 ぬえね。京都と静岡では違うのか。それじゃあ、いろんなことが、いろんな場所で違ってるんやろうなって思った。そんなふうに、いろんなことが、いろんな言葉が、いろんな場所で、いろんな意味になってるってことやろうね。あたりまえか。あたりまえなのかな? わからん。 でも、じっさい、そうなんやろね。

二〇一四年九月二十二日 「時間と場所と出来事」

 時間にも困らない。場所にも困らない。出来事にも困らない。時間にも困る。場所にも困る。出来事にも困る。時間も止まらない。場所も止まらない。出来事も止まらない。時間も止まる。場所も止まる。出来事も止まる。時間も改まらない。場所も改まらない。出来事も改まらない。時間も改まる。場所も改まる。出来事も改まる。時間も溜まらない。場所も溜まらない。出来事も溜まらない。時間も溜まる。場所も溜まる。出来事も溜まる。

二〇一四年九月二十三日 「家でできたお菓子」

 ヘンゼルとグレーテルだったかな。森のなかに、お菓子でできた家がありました。といった言葉ではじまる童話があったような気がするけど、ふと、家でできたお菓子を思い浮かべた。

二〇一四年九月二十四日 「愛」

 二十歳の大学生が、ぼくに言った言葉に、しばし、こころがとまった。とまどった。「恋人と別れてわかったんですけれど、けっきょく、ぼくは自分しか愛せない人間なのだと思います。」

二〇一四年九月二十五日 「過ちは繰り返すためにある。」

まあ、繰り返すから過つのではあるが。

二〇一四年九月二十六日 「神さま」

 あなたは目のまえに置いてあるコップを見て、それが神さまであると思うことがありますか?

二〇一四年九月二十七日 「卵」

 きょうは、ジミーちゃんと西院の立ち飲み屋「いん」に行った。串は、だいたいのものが80円だった。二人はえび、うずら、ソーセージを二本ずつ頼んだ。どれもひと串80円だった。二人で食べるのに豚の生姜焼きとトマト・スライスを注文したのだが、豚肉はぺらぺらの肉じゃなかった。まるでくじらの肉のように分厚くて固かった。味はおいしかったのだけれど、そもそものところ、しょうゆと砂糖で甘辛くすると、そうそうまずい食べ物はつくれないはずなのであって、まあ、味はよかったのだ。二人はその立ち飲み屋に行く前に、西大路五条の角にある大國屋で紙パックの日本酒を買って、バス停のベンチのうえに坐りながら、チョコレートをあてにして飲んでいたのであるが、西院の立ち飲み屋では、二人とも生ビールを飲んでいた。にんにく炒めというのがあって、200円だったかな、どんなものか食べたことがなかったので、店員に言ったら、店員はにんにくをひと房取り出して、ようじで、ぶすぶすと穴をあけていき、それを油の中に入れて、そのまま揚げたのである。揚がったにんにくの房の上から塩と胡椒をふりかけると、二人の目のまえにそれを置いたのであった、にんにく炒めというので、にんにくの薄切りを炒めたものでも出てくるのかなと思っていたのだが、出てきたそれもおいしかった。やわらかくて香ばしい白くてかわいいにんにくの身がつるんと、房からつぎつぎと出てきて、二人の口のなかに入っていったのであった。ぼくの横にいた青年は、背は低かったが、なかなかの好青年で、ぼくの身体に自分のお尻の一部をくっつけてくれていて、ときどきそれを意識してしまって、顔を覗いたのだが、知らない顔で、以前に日知庵でオーストラリア人の26才のカメラマンの男の子が、ぼくのひざに自分のひざをぐいぐいと押しつけてきたことを思い起こさせたのだけれど、あとでジミーちゃんにそう言うと、「あほちゃう? あんな立ち飲み屋で、いっぱいひとが並んでたら、そら、身体もひっつくがな。そんなんずっと意識しとったんかいな。もう、あきれるわ。」とのことでした。で、そのあと二人は自転車に乗って、四条大宮の立ち飲み屋「てら」に行ったのであった。そこは以前に、マイミクの詩人の方に連れて行っていただいたところだった。で、どこだったかなあと、ぼくがうろうろ探してると、ジミーちゃんが 、「ここ違うの?」と言って、すいすいと建物のなかに入っていくと、そこが「てら」なのであった。「なんで、ぼくよりよくわかるの?」って訊いたら、「表に看板で立ち飲みって書いてあったからね。」とのことだった。うかつだった。メニューには、以前に食べて、おいしいなって思った「にくすい」がなかった。その代わり、豚汁を食べた。サーモンの串揚げがおいしかった。もう一杯ずつ生ビールを注文して、煮抜きを頼んだら、出てきた卵が爆発した。戦場だった。ジミー中尉の肩に腕を置いて、身体を傾けていた。左の脇腹を銃弾が貫通していた。わたしは痛みに耐え切れずうめき声を上げた。ジミー中尉はわたしの身体を建物のなかにまでひきずっていくと、すばやく外をうかがい、扉をさっと閉めた。部屋が一気に暗くなった。爆音も小さくなった。と思う間もなく、窓ガラスがはじけ飛んで、卵型爆弾が投げ入れられ、部屋のなかで爆発した。時間爆弾だった。場所爆弾ともいい、出来事爆弾ともいうシロモノだった。ぼくは居酒屋のテーブルに肘をついて、ジミーちゃんの話に耳を傾けていた。「この喉のところを通る泡っていうのかな。ビールが喉を通って胃に行くときに喉の上に押し上げる泡。この泡のこと、わかる?」「わかるよ。ゲップじゃないんだよね。いや、ゲップかな。まあ、言い方はゲップでよかったと思うんだけど、それが喉を通るってこと、それを感じるってこと。それって大事なんだよね。そういうことに目をとめて、こころをとめておくことができる人生って、すっごい素敵じゃない?」ジミーちゃんがバッグをぼくに預けた。トイレに行くからと言う。ぼくは隣にいる若い男の子の唇の上のまばらなひげに目をとめた。彼はわざとひざを押しつけてきてるんだろうか。むしょうに彼のひざにさわりたかった。ぼくは生ビールをお代わりした。ジミーちゃんがトイレから戻ってきた。男の子のひざがぼくのひざにぎしぎしと押しつけられている。目のまえの卵が爆発した。ジミー中尉は、負傷したわたしを部屋のなかに残して建物の外に出て行った。わたしは頭を上げる力もなくて、顔を横に向けた。小学生時代にぼくが好きだった友だちが、ひざをまげて坐ってぼくの顔を見てた。名前は忘れてしまった。なんて名前だったんだろう。ジミーちゃんに鞄を返して、ぼくは生ビールのお代わりを注文した。ジミーちゃんも生ビールのお代わりを注文した。脇腹が痛いので、見ると、血まみれだった。ジミーちゃんの顔を見ようと思って顔を上げたら、そこにあったのは壁だった。シミだらけのうす汚れた壁だった。わたしが最後に覚えているのは、名前を忘れたわたしの友だちが、仰向けになって床のうえに倒れているわたしの顔をじっと眺めるようにして見下ろしていたということだけだった。

二〇一四年九月二十八日 「シェイクスピアの顔」

 塾の帰りに、五条堀川のブックオフで、『シェイクピアは誰だったか』という本を200円で買った。シェイクスピア関連の本は、聖書関連の本と同じく、数多くさまざまなものを持っているが、これもまた、ぼくを楽しませてくれるものになるだろうと思う。その筆者は、文学者でもなく研究者でもない人で、元軍人ってところが笑ったけれど、外国では、博士号を持ってる軍人や貴族がよくいるけど、この本の作者のリチャード・F・ウェイレンというひともそうみたい。あ、元軍人ね。学位は政治学で取ったみたいだけど、シェイクスピアに魅かれて、というのは、そこらあたりにも要因があるのかもしれない。『シェイクスピアは誰だったか』めちゃくちゃおもしろい。シェイクスピアは、ぼくのアイドルなのだけれど、いままでずっと、よく知られているあの銅版画のひとだと思ってた。でも、どうやら違ってたみたい。それにしても、いろんな顔の資料があって、それが見れただけでも十分おもしろかったかな。シェイクスピアっていえば、あのよく知られているハゲちゃびんの銅版画の顔が、ぼくの頭のなかでは、いちばん印象的で、っていうか、シェイクスピアを思い浮かべるときには、これからも、きっと、あのよく知られたハゲちゃびんの銅版画の顔を思い出すとは思うけどね。

二〇一四年九月二十九日 「きょうは何の日なの?」

 コンビニにアイスコーヒーとタバコを買いに出たら、目の前を、いろんな色と形の帽子がたくさん歩いてた。あれっと思ってると、その後ろから、たくさんの郵便ポストの群れが歩いてた。きょうは何の日なんやろうと思ってると、郵便ポストの群れの後ろからバスケットシューズの群れが歩いてた。うううん。きょうは何の日なんやろうと思ってたら、だれかに肩に手を置かれて、振り返ったら、ぼくの頬を指先でつっつくぼくがいた。ええっ? きょうは何の日なの? って思って、まえを見たら、ただ挨拶しようとして、頬にかる~く触れただけのぼくの目を睨みつけてくるぼくがいて、びっくりした。きょうは何の日なの?

二〇一四年九月三十日 「夢は水」

 けさ、4時20分に起きた。睡眠時間3時間ちょっと。相変わらず短い。ただし、夢は見ず。さいしょ変換したとき、「夢は水」と出た。

二〇一四年九月三十一日 「返信」

 ある朝、目がさめると、自分が一通の返信になっていたという男の話。その返信メールは、だれ宛に書かれたものか明記されておらず、未送信状態にあったのだが、男は自分でもだれ宛のメールであったのか、文意からつぎからつぎへと推測していくのだが、推測していくたびに、その推測をさらにつぎつぎと打ち消す要素が思い浮かんでいくという話。


自由詩 詩の日めくり 二〇一四年九月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2020-11-29 21:00:37
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