接地のための投下
道草次郎
ぼくは自分自身のふせいじつに爆弾を落としたいです。
あるいは、詩を一日三十は書いてそのうちの十を投稿してしまう発作に。
俳句も、白状しましょう。ああいうのは、読みふるしの文庫版の歳時記からてきとうに季語をひろって、ちょチョイと。たしかに作っている時は楽しいですが、そこにはなんにも無い気がして、すこし、優柔が痙攣します。
朝行く前に『エール』を観ます。観ていれば、それは次が気になります。それがドラマです。だから行きの車では、『栄冠は君に輝く』や『若鷲の歌』を聴きます。そして、時々、ぷるぷると子犬みたいに泣いてしまいます。
この前はすれ違ったおばさんにその様を見られて、顔が真っ赤になりました。ぼくは、まあ、そんな人間です。なんにもならないものです。
最近、右目の視力が極度に低下したため、自分で書いた詩を見間違うことがよくあります。でも、その見間違いの方が良さそうな事もあり、こっそりその見間違いを採用しぬけぬけと投稿してしまったりします。
そして、そんな時にかぎって全然反応がなく、なんだかひとりで踊りをおどっているようで、切ないやら恥ずかしいやら。
さっき、アジの開きを食べたら骨が歯茎に刺さり、じゅわぁと血が出ました。でも、あんがいそのせいで沈んだ気分が治ったので、結果オーライなのです。思えばこういう事と詩による慰めとに、一体どんな相違があるのでしょう。
見て下さい。たくさんのよい詩人たちはみな、抑制の心得に飢えています。それを実践できている人もいれば、そうでない人もいるでしょうが。
ぼくのようなこんなみっともないことは、よい詩人たちはきっとしません。
むろん、こういう感情を持ちはするでしょうが、よい詩人はそういうのも詩にとりこみ、もっとおおきな風景の中のちょっとした立ち木にしてしまうのです。まったくずるい魔法遣いです。
悔しいですよ、まったく。しかも、それがあんまりうつくしいのだからもっと恨めしい。ぼくみたいなドブネズミには、こうしてろあくの道に自分をちぎっては捨てるより他はできません。どうも、そんな身の上には冬の木枯らしは身にしみます。へんに脛だけがスースーするようで、心が時々ダメになるのです。
けれども、やっぱりよいものはよいのは本当です。だから、そういう信仰があったら、ぼくは喜んで盲信するでしょう。けれども盲信にも盲信の居ずまいというのがありますね。
どうにも、ぼくにはそうやって姿勢よくしている事は出来そうもありません。本音を言えば、恐ろしくもあります。なんだかよく分からないまま生きて行って、気付いたら気付くはずの自分がそもそも不在、という笑えない滑稽の極みに落下しそうで。
大抵ぼくが見る夢は、夜にしても昼にしてもこういう類のものです。まったく、なんてこったの小太郎です。このような言いまわしは、自分のかなしい創作ですから、どうかどなたも気にとめないで下さいね。
地獄以外の餞別があるものなのか、どうなのか。ぼくはいま、チャップリンかまど・みちおさんあたりに訊いてみたい気分です。
冬が、近づいてきます。どなた様も、その祈りに於いてつよくご自愛を。
敬具。
なのであります。