苔生した遺跡群の中の「SF(サイエンス・フィクション)」
道草次郎

自分は、昔からサイエンス・フィクションを愛してやまない人間であった。昨日、ある詩人の方が投稿された詩を読んでいて、忘れかけていたそんな思いが胸のうちに甦ってきた。

自分はかつて夢を見ていた。SFの夢である。それはアルタイルの原人が金魚すくいを思い付き、比喩の構造に胸を打たれ分析哲学に至るまでの冥い道のりをたんたんと描く、そんな風変わりな物語だった。或いはそんな物語が沈積してゆく幻の断片であった。

そこには、銀河帝国も量子テレポーテーションもダイソン球も出てこない。華やかなものは悉く墓の下に息を潜め、並行進化の俤すらその物語には見出すことはできない。そんな物語を何度か夢想の庭に紡いだ記憶がある。

その物語に登場する惑星は、非常に地球と似ていて、いや、それはもはや地球そのものだったかも知れない。だから、リンゼイやドレス・レッシングやナボコフ、ボルヘスの夢幻世界や夢想家でない時のレムなどが築き上げた宇宙がそれに近かったのかも知れない。そんなSFを、そんな世界の構築をかつて夢にみた。その夢はけっきょく果たされぬまま終わってしまったが、夢が鮮やかな光彩を放っていた微かな記憶だけは消えることはない。

今はただ、天才というにはいささかヤンチャ過ぎた三十年代のパルプ雑誌から抜け出してきたかの如き神々たちを、遠くから礼拝して満足している。SF、それはいつでも古びた万華鏡だった。映画『スター・ウォーズ』シリーズのオープニングで奇しくも、こう語られているように。

「A long time ago in a galaxy far, far away....」
「遠い昔、はるか彼方の銀河系で…」

それはプラトンの中に芽生え、カンパネッラに兆し、ヴォルテールそのものでもあったかも知れない。だが、そうであると同時にそれらのいかなる思想ともことなる突然変異の祝祭であったかも知れない。もしくは、SFはただラスコーの壁画である自分を、太古の茂みの中に隠そうとしていただけなのかも知れない。

それは隕石の思い出による集積回路であり、宇宙ひものつくため息を吸う海綿だったろうか。つまりそれはなんにでもなり得たし、そうである前に、既に、何ものでも無いそういうものだったという可能性すらある。

そんな懐かしいような不可解なような何かは、今は押入れの奥で埃を被っているはずだ。隣り合ういかり肩の典籍にこれっぽっちも遠慮することなく、そのいくらか安っぽく見える蛍光塗料が放つ光が消える事はない。

たしかにそれが、燃えるような瑞々しい時代の象徴であった事は否定できない。どんな時も、意味の付与を厭う純粋なうつくしさそのものであったはずのSFもまた、年月を経てからは晩秋のカーディガンを纏わずにはおられなくなったという事か。しかしながら、太陽からの風は今なお、この瞬間にもダンボールの暗闇へと達し続けている事には変わりがない。

これもまた、一つの小さなSFだと言わんばかりに。




散文(批評随筆小説等) 苔生した遺跡群の中の「SF(サイエンス・フィクション)」 Copyright 道草次郎 2020-11-11 20:27:55
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