言葉と詩についてのメモ
道草次郎

言葉一つ、満足でない気がする。つまり、言葉はそもそも満足なものではない気がする、という叛逆的意識。たぶんこれは間違っている。言葉への入口に書かれている立て札「立入禁止区域」に思わず仰け反っただけの、一種の条件反射である。

言葉はたぶんもっと満ち足りたものだ。この表現は比喩に違いないが、満不満でいったらずっと満に近い方の成立条件を備えているだろうし、それは常に想像を超えて来る回帰性のものだろう。

ところでこういったことは、既に、多くの誰かが至る場所と時代に於いて考え尽くした事だ。おそらく旧約聖書を編んだ幾世代かの人々でさえ、全くこういう事を考えたと思う。では、こうした事の新奇さは否定されるか。否定される。でもそれで構わない。それどころか、それが望ましい。何故なら、思考するとは何らかの流れに列席する事だから。

考えることは、じつはとても少ないのかも知れない。思考の網は無限に拡がっているように見えるが、その実、数少ないポイントを残し他は飾りに過ぎないのかも知れない。そういう考え方もあり、そういう考え方を考えさせるのもまた言葉なのだから、その言葉というものの不思議さは本当に不思議だ。

そして、言葉の徹底的した鏡面原理。言葉は自分が寛容でなくても、というか自分が何者でなくとも、なにものをも抱き込める。そういう無限のエネルギーの場を言葉は持っている。それは、たぶん「存在」と非常に近接の関係にある。

何かを言っても、そのあとに美しい余韻だけを残すような言葉を、おそらく詩人は探している。或いは探していない。どちらも真であるという事。その事の中に、言葉の真の厚みが存するという逆説の導き手がある。

書いてしまうと大抵は薄まってしまう。しかし、この希釈こそが言語化の醍醐味ではないか。というか、言語というものの特性ではないか。

人は、混沌を希釈しロジックのレールを敷く。生というトロッコ列車に載ったそれは、純々と、着実に蒸留されてゆく。ロジックにおける非ロジック性の上澄みがやがて上がってきたらそれを掬い、さらに煮詰める。すると最後に結晶ができる。その結晶は、最初の混沌と殆ど見分けがつかないものの、やはり結晶は結晶である。言語化とは、その結晶を結晶化たらしめる際の手並みに過ぎないだろうか。そして、その手並みの優れたものが詩人なのではなくて、その手並みに余りにも自覚的な場合、その人は必然的に詩人と呼ばれるのか。

例えば、良くない体臭の染み付いたシーツを洗濯し、あまりキツくない消臭剤をふりまくことがすべてへの回答である朝もある。そういう朝というのももちろん一つの思想だ。哲学がそういう思想をせせら笑えば、哲学は自らをせせら笑っているに相違ない、という一つの哲学的意識を中心に据え考えることの中に、言葉はどういった立ち位置を持つのか。

これは非常に際どい問題だ、と思う。知的能力の限界が倫理的世界へ侵犯することを許せないという直感をもとに展開される詩は、論理的でないだろうか。しかし、論理的とは何か。それはおそらく論理に内在する破綻的とも言えるゼロ・ポイントに自覚的である場合、はじめて何らかの意味を成す何かではないか。

ところで、こうやって何も書かれていない真っ白な画面に何かの言葉を書きつけていくと、心の穴が埋められていくように感じる。こういうのも、言葉の働きの一つだろうか。とにかく、言葉というものは大変なものだと、そればかりは心から確かに思うのを否定できない。そう言わせているのも言葉の魔力に違いないのだろうが、それはそれで悪くもない気がする。メフィストフェレスはいつだって鼻先に脚を組み、妖しい微笑を湛えている。

最後に一つ。不思議なのはあれだけの混沌を抱え持つあの海というものが、なぜ、言葉を持たないのかという事実だ。けれども、もちろんそうやって不思議がるのは人間の癖に違いない。そうでない在り方を採用しているものには、そういうもののやり方というものがちゃんとある筈で、だから、あまり不思議がるのは却って可笑しいだろうか。海が、何か別の、人間には想像も及ばないような方法で混沌に始末の付けているとしたら…そういう事を想像するのは自分にとって、時として、とても愉快な事の一つなのだ。




散文(批評随筆小説等) 言葉と詩についてのメモ Copyright 道草次郎 2020-11-07 05:04:32
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