詩など三編
道草次郎

「どこで落とし前を付けるか」

ほんものの皮肉は
しっかりやることです
神への唾は
忠節です

皮肉が皮肉の装いのうちは
皮肉にみちないように
堕天使の魔性が神と見分けがつくうちは
堕天使でないように

我々は皆
ほんものになるのがとってもこわい
人生を考えるものとして
ついみてしまうのも
それだからです
人生になろうとはなかなかしないのも
それだからです

悪に染まるのが
大儀なのも直感の髣髴です
悪の色がなにいろなのかがわからずに
時砂ばかりのさよならで
妙なグラデーションを拾います

こういう心臓は
野で暮らせばよいのだから
もう意味などはいざ捨てましょう

とくだん
名声はほんとうに
いらない

いきていたいかたときかれたら
みずから舌を抜き
めをつむり
働きながら
もうまよいごとは
輪廻の車輪の
かいてんする輻(スポーク)で
砕くんだ

それきりが
それが
ぎりぎりのおれの線だ



「久方ぶり」

友達に会った
何ヶ月ぶりかだ

最近は詩ばかり書いているよと
ななしの詩を
いくつか見せたら
事情を知ってる彼は
ストレス発散というのも悪くないね
と言った
ストレス発散か
その通りだなとおもった

一番よく出来たとおもう俳句を見せたら
意味がわからない
と言われた
意味がわからない
その通りだなとおもった

ドリンクバーをたくさん飲んで
三時間ぐらい話して帰ったら
思いのほか疲れていて
次の日の朝は
八時まで寝てしまっていた

陽の当たるところにでると
まつ毛のあたりに痒い光がまとわり付いて
それだけのことが
それだけのことのなかに嗤っていた


「木のたとえばなし」

何十年もたちつくして根っこが生えていつの間にか木になってしまった。
梢には皮肉の速贄、幹は根腐れの毒水を誘引し、落雷を期待しては小鳥に馬鹿にされ、葉を食む虫には怖気の眼差し。

ある日木は比喩の夢を見る。木はそのまま夢にとどまる比喩となり、比喩の木として比喩の風にそよぐ。
そのようにして木は、みずからが木であることを比喩の中にすてて、比喩そのものになろうとする。

比喩の翼がどこかへ自分を連れて行ってくれることをねがうのだ。

しかし比喩もまたひとつの木。ある日の寂しい黄昏時、地に根をもつ翼生やした比喩が飛びさろうとすると、大地は根こそぎ剥がれ、面白がるように浮遊してしまった。そのような世界破滅の愉楽に幾らかはうっとりしていたものの、けれどもそれも所詮は比喩の夢。それにはたと気付いたのか気付かぬのか儘ならぬまま、夢のそのまた夢の遊戯に過ぎないたわむれひとくさり。

なるほど根ざす大地の大元の大元がとてもシンプルなものであることには変わりがない。と、このような夢を木だか比喩だかがまだ夢見ているのだ。

いつまでも草臥れない永遠が、雲間から顔を出し名無しの存在を照らしている。
木も比喩も照らされている。




自由詩 詩など三編 Copyright 道草次郎 2020-10-24 21:21:47
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