意味教徒
消費者
バーガーキングで干し芋のようなフライドポテトを噛みながら
意味に吸われていく自分の人生のことを考えた。戦時中だった。
この芋よりも有意味でありたいという願いは
いまの気力からしても実現可能性からしても、あえかであるように思えた。
店内では明るげな洋楽が流れていて
それは適度に通俗的であることが求められている。
そのことが澱んだ頭でよくわかった。
咀嚼音や客同士の会話を打ち消しつつも
気分に深く干渉しないよう設計されているのだ。
誰もが意味と理由を求めて生きているこの街で
それを損ねたり見失うことは死ぬほど恥ずかしく恐ろしい。
ホームレスでさえも意味の呪いから逃れることはできないように。
俺のフライドポテトは、
設計上法定ギリギリの品質保証を掠めて店の利益に貢献した、
意味の満塁ホームラン打者である。
つまり、しおしおの惨めな姿に尚同情する必要がないのは
彼が満塁ホームラン打者だからなのである。
そんな中、俺は未だに意味を脱ごうとしていた。
汗ばんだ身体に纏わりつく綿の素材感にイラつきながら、
干し芋が内野を周回するのを見ているベンチウォーマーだ。
はっきり言って、意味自体は脱げる代物ではない。
そんな、石っころのような真理にすら気付けずに
意味の綿シャツを必死に脱ごうとしている滑稽さにこそ、
この景色の画竜点睛がある。
この我が人生、芸術作品と嘲けずに何とするか。
厳密には、意味的に、あるいは目的的に
意味を脱ぐことはできないと申し添えよう。
だから人は狂うと言われても安易に否定できないほどには、
それは潜在的に俺らに取り憑いて離れない。
だから、俺らは衝動と脊髄の反射でしか
人生を塗り替えることができないのを知っている、
太古からの意味教徒である。
高級な意味と、綻びのない理由とが、
あのビルを、あのビルを、
このビルも、そのビルも、
全てのビルの外壁とアスファルトを
ガチゴチに塗り固めて一糸乱れない。
そのガチゴチに切り取られた霞ヶ関の四角い夏の空を
一頭のクジラがゆっくりと横切っていった。
大きな黒い影が、灼熱のような街角の体感温度を奪い
人々は一様に空を仰いだ。
もはや塁を珍走する芋に目をくれる者は誰もいなかった。
皆、空を泳ぐクジラに夢中でスマホカメラを向けた。
それは桁違いに美しい無意味だった。