詩を読むこと
道草次郎

なんだか、時々、こういう風に思います。

現代詩フォーラムに毎日投稿される詩、それから過去ログの詩もですが、嫌な時もたまにはありますが、大体はそれらを一つ一つちゃんと読んでみたいなと思ったり。

むかしは、自分で書いたもの以外はぜんぶ吐き気がしたものです。まあ、古典は別でしたが。そして、後で自分の書いたものを見直したらさらに気持ち悪くなったり。なんとも滑稽です。

なんであんなに何もかも気にいらなかったんだろうと思えば、それはたぶん、自分に自信がなかったんだろうな、と。

と言っても、今の自分に自信がありますかと聞かれればノーで、今はただ、平気になったというか、身の丈を知ったというか、それは如何ようにもいえます。

たとえば公園に一人で出掛けていって、知らないおばさんに話しかけられても、それなりの話ができるようになるみたいなものです。

まあ、実際は、そんなに上手くいかない時の方が多いんですが、それでも書くことよりも読むことに重きをおこうというスタンスはあった方が、随分、気楽です。

心をからっぽにしてこそ入ってくるものがあります。心にとって、流れ込むものも流れ出すものも、どちらもおんなじな気がしますから。つまりは、そういう事ですね。

今日も、すごく感銘を受けた詩がありました。

大抵、毎日あります。何故そんなにあるのかわかりませんが、とにかくありますね。自分の場合、詩を読むときの基準が、出来とかにあまり左右されないからだと思います。

自分にとって感銘を受ける詩とは、それを書いた人が何を言いたいかより、その人の姿が垣間見えてくるような詩です。

そして、往々にして良い詩は、垣間見せる技術に長けているように感じます。

けれども、どんな詩にもその詩を書いた人なりの凄いところがあるような気もします。これは、よく考えれば大変なことだと思いますよ、まったく。

ただ、あんまり乱暴なのは面白くない。頭の良い人ほど、そういうものとの距離のとり方に長けていますね。

たとえ皮肉に満ちみちた詩や批評を書いていても、その裏には大河のようなやさしさを持っている人もいます。

そして、そう言ったやさしさはおそらくある程度歳を重ねないと身につかないのではないかと思うことがあります。

やさしさとは、だからとても複雑なものでしょうね。

やさしさが、ただの優しさであると思っているうちは青くて、だから才能ある若者は年長者のそうしたやさしさの前で本能的におののくのでしょうか。そして、黙する。若者は黙してこそ年をとって行ける、そんな気もします。

色々と勝手なことばかりを書きました。

別にこれと言って何かを伝えたいこともないので、この辺でお仕舞いにします。

秋も深まってきました。秋は、色々なものを少しだけ透明にしますね。
あ、これは自分の主観でした。

では。
風のように、お暇することにします。


散文(批評随筆小説等) 詩を読むこと Copyright 道草次郎 2020-09-24 20:49:19
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