振り返ること Ⅰ
道草次郎

ぼくの一番の幼馴染は身長が185センチもあって運動もできた。たしか東大大学院まで行って、その後はIBMに勤めて、今は奥さんも子供もいるそうだ。しかも性格も頗る良い。ぼくが中学の時代に不登校になった時、毎日頼まれてもいないのに給食のパンを届けてくれた。

ぼくは身長が165センチ弱で、太り気味。三流の大学を出たものの就活に躓き、半引きこもりの末、20代後半でやっと弁当屋の職業体験をさせて貰えた。不整脈持ちでうつ持ちで、今は子供に金を送らねばならないのにもかかわらず失職中だ。

アルバムを開くとこの2人が、ブリーフ姿のまま新聞紙の剣で対決をしている写真が山ほど出てくる。しかしぼくは一度たりとも彼に嫉妬したことはなかった。よく考えてみれば不思議のようでもあるし、別に不思議でもないこととも思える。

ぼくはつねに自分自身にしか興味がなかったのだと今になり思う。

ぼくがピアハウスという作業所でみんなとバーベキューの準備をして疲れてしまった時、ある人からこう言われた。「そんなんじゃ、だめだよ(憐憫風)」その一言にすっかり落ち込んしまい、1週間あまりぼーっとして過ごしていた時も、心はつねに自分の心を見つめていた。

せっかく高い入学金を払って入った私立の高校もぼくは3日で辞めたし、自動車免許も仮免前で頓挫した。あの時はひどいうつ状態だった。そして、俳句を作っては畑を耕す日々がぼくの20代前半だった。一銭も稼がず女性とも付き合ったことがなかった。死と隣り合わせの日々であった。

父は既に死んでいたし、兄は遠くにいたし、母と二人実家暮しをしていた。母には散々迷惑をかけた。精神的な迷惑に比べたら経済的な迷惑は殆どないに等しいほど、毎夜のように母をさいなんだ。寝ようとする母を引き止めてしつこくいつまでも自分の罪深さについて延々と講釈を垂れたり、地獄とはどんなところか狂ったように朝まで呟き続けたりした。どうしようもなかった日々は千日ではきかないだろう。

そんなふうにしてぼくは生きてきた。それでも、死なずに生きてきた。だから、幼馴染の事など考えている心のゆとりなど無かったのだ。僕にとっての嫉妬の感情はあくまでも世間的な地位や名誉に依らない。それはたぶん、その人と精神的な交流があってはじめて生じる可能性のある何かだからだ。幼馴染とはずっと疎遠だったし、たまに年賀状をくれはしたが、返事を書く気にもなれなかった。

ぼくはたしか20代後半の時なにかの仕事を始めた。それと並行して引きこもりやNEETの居場所を作るため自助グループを立ち上げた。参加者は毎回だいたい10人前後。ぼくは主宰者を気取り司会役を務めた。すべての人になるべく分け隔てなく話をふり、訪れる人すべてに気さくに声をかけた。ある時は、それぞれが得意なことや趣味を持ち寄って小さな展示会兼発表の場を提供することも試みた。必要な折衝や事務的な手続きもやり、運営の協力者も随時募った。

ぼくはその自助グループの開催に当たっての挨拶の言葉としてこういう事を言った。「ぼく達は、いや、すくなくともぼくは幼稚園児だ。何もかも一からやりなおしたい。そう考えたから自分はこうして声をあけたんだ」

むろんみんな黙ってそれを聞いていたが、各人思うところは様々であったことをぼくは後々痛感することになる。

もちろんある程度プライベートな雑談の場では、ぼくは、自分が彼女が欲しいからこの自助グループを立ち上げたに過ぎなくて、みんなもそうするべきであるというような大口も時には叩いたし、ハイデガーの『存在と時間』を読破したというだいぶ年下のひどく人付き合いが不器用な青年には、あらゆる具体的なことは排除すべきだし、どこまでも抽象的に生きることを称揚するよ、とのたまったりした。後でその青年とは一悶着があり訣別をしたのだが、そんなこともぼくにはじつは大したことではなかったように思う。

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この話の続きは次回にします。


散文(批評随筆小説等) 振り返ること Ⅰ Copyright 道草次郎 2020-09-18 00:59:10
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