朝 (他六篇)
道草次郎

「朝」

いただいた分だけ

お返ししたい

ありがとう

の言葉を

できれば添えて

けれども

ただ

生きていても

大丈夫



「海綿」

区切る
ようなのでなく
言葉は
海綿の
ようで在れ
含み
それは保たれる
握力が
それを
海のものとする
まで



「ブロッコリーの茎」

ブロッコリーの
茎を
見つめる夢
ばかり
最近みる
探していたものが
じつは
ブロッコリーの茎
だったような
夢だ
なんで
そんな夢をみるのか
分からない
ただ
そんな夢をみるのだ
そんな自分が
土の上に
コンクリートと木の板を
敷いて
暮らしている



「安住」

眠くて
全部
なくしてしまった

くやめるほど
それは
確かでなかったが

代わりに
空っぽの青空が
デスクに
贈られてきた



「ユウゼンギク」

友禅菊が
小窓に飾られた
秋なのだ

青紫色のこまかな
花びらは
舌状花と呼ばれる
一枚ずつ
数えてみると
計三十二枚
ほんとうにかほそくて
見ているだけで
秋のよう

筒状花とされる
真ん中の
黄色い部分は
こじんまりした
控えめな
蒲公英みたいだ
秋には
ちょうど良い春という
趣きだ

英名を
ニューヨークアスター
と云うらしい
元は北米原産らしく
それが明治に渡来し
こんにちでは
全土に分布をしている

アスターとは
菊のこと
ニューヨークの菊
これが
友禅菊の故郷での
呼び名なのだ

目の高さの花瓶に
控えめに咲く
その花を
目で傷付けて
しまわぬうちに
はやく
洗い物と洗濯を
片付けてしまわねば

キッチンの方へ
いく足取りは
心なしか
穏やかなものと
なっていた



「蝶」

言葉にすれば
蝶は
蝶でなくなってしまう
蝶が
あんな
類まれで不規則な
羽搏きに
その身を委ねるのは
言葉の網から
逃れ続けている
から
かもしれない


「サルスベリと季節について歩きながら考えたこと」


たしかにサルスベリは
猿が登ろうにも
ツルツルと滑ってしまいそうな
樹皮に被われている
一昨年
庭のサルスベリの
そのツルツルした部分に
カイガラムシがたくさん付いたことがある
恥ずかしいことに
ずっと
カイガラムシというものを
どこか昆虫というよりも
病痕のように漠然と思っていて
かいがらに見たてられる
その貝殻状の白い被覆物を潰すと出る
あの赤い汁を
なぜかそれに触れてはならない病液のように思っていた
しかしその赤い液体は
コチニール色素という
歴とした天然由来の着色料なのだ
ということを
つい先程知った

サルスベリは百日紅とも書く
これは
花の咲く時期が長きに亘ることから
そういう字が宛てられたことと思う
昨日
近所を歩いていると
二本のサルスベリに出くわした
それぞれに微妙に色の異なるその花は
片や
まっとうなよく見かける紅
もう一方のは
先の紅の濃さを半分ほど抜いた所に
薄桃色を数滴たらしたような色をしていた
自分の好みは後者だが
そのどちらにも
季節の小鳥は舞い来て
細い枝を休み処としていた
小鳥がチュンと鳴くたび
円錐花序と呼ばれるもっさりとした花の塊が
やさしく上下をしていた

サルスベリは全体としては
夏には暑苦しく感じられるほど
その印象をつよく残す花ではあるが
秋も中旬に差し掛かろうとする頃には
いったんその色合いも落ち着いてくるとみえ
弱まりつつある秋の陽射しと
うまく折り合いをつけたかのような花色は
心もちその色相を
下の方へくだりつつあるように映る

季節の移ろいの中にあって
ただ一本の潅木も
その様相を時々に変容させていることを考える
今まで知らなかった自然の姿が
この何度目かの秋の突端に於いて
さやさやとその調べを奏で始めているのだ
そこには一片の疑念ももはや
差し挟むことができないように思われてならない
何かがあるのだった




自由詩 朝 (他六篇) Copyright 道草次郎 2020-09-17 13:09:47
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