予兆 ―プロフェシー―
岡部淳太郎

 何かがゆっくりと近づいて来ている。それはやや静かに、それほど大きな音ではなく、それでも耳をすませば確実に聞き分けられるほどの大きさの足音を立てて、僕たちのそばに忍び寄ってきている。人々は早くも悲しみ、倒れて、既に疲労感をあらわにし始めているが、これはほんの始まりに過ぎなくて、これの後にはもっと大きなものがやってきて、それによって人々はもっと深く悲しみ、もっと大きな混乱に陥ってしまうかもしれない。しかし、それはいまのところ誰にもわからない。いま敏感な者たちはそれを、いまだによくわからないがためにとりあえず「何か」と名づけておくしかないそれの到来への予兆を感じ始めてはいるものの、それがいまよりももっとひどい明日をもたらすものなのか、それともいまのこの状況を振り払って見たことのない幸福な明日を見せてくれるものであるのか、誰にもわかっていない。だが、その予兆の中にある者たちはみな一様に、その「何か」はそうありきたりのものではないだろう、やって来るのは最悪か最良かのどちらかであって、中途半端なものではありえない、そうでなければこんな予兆に捉えられはしないと思っていた。いずれにしても僕たちは、そのやって来るものの前にすでにこうなっており、それはまだ途中の段階でしかないのだということだ。
 それを感じ取れる人の数はそれほど多くはなかった。ある者は彼等を予言者と呼び、別のある者は偽予言者と呼んだ。また、多くの人は彼等を胡散臭げな眼でちらっと見やるとまた視線を落として溜息をつき、自らの鈍感さの檻の中へと逃げこんではそこを安住の地と定めた。予言者または偽予言者とも呼ばれる彼等だが、何も彼等は特別な存在などではなかった。すでにこうなってしまった僕たち、早くも悲しみと疲労に捉えられてしまった僕たちの中で、ほんの少しだけ敏感で、ほんの少しだけ風のにおいを読み取るのに長けただけの、他の人々と同じようにこの地上に生きているただの人に過ぎなかった。もしかしたら彼等はこの状況がやって来るずっと前から、いや、彼等が生まれて間もない幼い頃から既に悲しんでいたのかもしれない。そのような悲しみをあらかじめ持っていたから、彼等はこのようなもっと多くの人々が悲しむような状況で人々よりも敏感にそれを感じ取り、そこからやって来るであろう何かのことを感じ取れるのかもしれない。
 だが、繰り返し言うが、彼等のような存在はあくまでも少数であり、少数であるがゆえの無力感にさいなまれてもいた。多くの人々はこんなものはいずれ終るとたかをくくるか、この状況がもたらす疲労ゆえにいらだって他の人たちを攻撃したり嘲笑したりしていた。そのどちらであっても、この状況の先にいずれ来るであろうもっと大きな何かのことなど考えておらず、いまここにしかいないのは変らなかった。人々は何も愚かなわけでもなければ悪いわけでもないし、人々と彼等の間に決定的な差異があるわけでもなかった。だから、彼等と比して人々を下に見るなどということが許されるはずもなかった。人々はただ、恐れに脅えて自らの弱さを見ようとしないだけであった。彼等は人々よりも自らの弱さに自覚的なだけであって、同じように弱い人間であるということに変りはなかったのだ。
 それにしても、予兆とは何だろうか。彼等は宇宙から絶え間なく降り注ぐ粒子か何かを感じ取ってでもいるのだろうか。彼等のうちのある者はそれを絵に描き、別のある者は言葉に書いた。しかし、それが理解されることはほとんどなかった。彼等が自らが感じた予兆にしたがって作り上げたそれはこの期に及んでも人々には理解されず、彼等はまた何も期待などしていなかったのだという顔をして、無言でその作業に戻るだけだった。そして、また予兆を感じて、それがすぐ近くにまで来ているということの核心をますます深めて、人や生や死や、あるいはこの地を飛び越えた空の向こうのことなどを考えたりした。
 人々を覆う空の下で、恐怖や不安は日毎に増幅し、それらを容れるうつわはもう飽和寸前にまでなりつつあった。この「何か」の前触れとしての一足早い悲しみの中で、人々の疲労はあふれ出し、そのために誰かが誰かを傷つけ、傷つけられた者は絶望してしまった。そんな不要な争いと苛立ちの中、人々の心の混沌は美しく濁り、予兆を感じることの出来る数少ない彼等は、その様子を見て溜息をついた。その息は汚れた空気の中を通って人々の頭上でゆらゆらと揺れたが、人々がそれに気づくことはなかった。もうこんなことをしている間にもその「何か」はすぐそこまでやって来ているのかもしれない。そう思って彼等は人々のそれとは異なる種類の苛立ちを覚えた。そして、
 そして、何がやって来たのか。ここから先は過去形で語られる。彼等が常にその予兆をこうなるかもしれないとか、こうなるだろうという未来形で語ったのとは逆に、ここから先は既に過ぎ去ったことだ。だが、いまの私はそれを知らない。私はその時の彼等や人々と同じ地平にあり、それゆえにいまここという曖昧さを確認するしか手立てがないからだ。だが、それは既に過去である。それは、予兆されたそれはやって来た。そして人々の間を悠然と歩き回った。人々ははじめて見るそれの姿を驚きの眼差しで眺め、それを予兆した数少ない彼等は、それこそがそれなのだという確認とともにしっかりとそれを見つめた。そして、それは過ぎ去っていき、それは歴史の中で語られることとなった。いったい予兆されたそれとは何だったのか。何がやって来て過ぎ去っていったのか。先程も語ったように、いまの私にそれを示すことは出来ない。ただ一つ言えることがあるとすれば、それが大きな悲しみやあるいは逆にそれまで見たことのないような大きな幸福であったのだとしても、それがやって来て、留まり、そして去っていった後も、人々は変らずにあり、世界もまたそこにありつづけていただろうということだ。
 大きな「何か」の到来。それに先駆けての人々の悲しみと疲労。それらのことは、遠い未来の先で繰り返し語られる物語となり、あの頃予兆のうちにあった彼等のことも、やがて同じような数少ない人々によって思い出され、語られてゆくことになるのだ。



(二〇二〇年四月~五月)


散文(批評随筆小説等) 予兆 ―プロフェシー― Copyright 岡部淳太郎 2020-08-26 20:55:51
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