父親
道草次郎
赤ん坊は冷感シーツが敷かれた座布団で寝ていた。頭のかたちをよくするマクラに小さな頭を乗せて、目をぱちくりさせていた。
赤ん坊の頭上には母親が手作りしたメリーがぶら下がっていた。ディズニーキャラクターの編みぐるみがオルゴールの音色に合わせてゆっくりと回転している。
赤ん坊の寝ている部屋には父親だけがいた。
父親は座布団に添い寝をしながら赤ん坊の目をじっと見つめていた。
赤ん坊はまだ笑うことはできなかったが、時々、モロー反射で体をびくりとさせた。それを見た父親はニコリと笑い、赤ん坊のほおを親指の腹でやさしく押した。焦点の合っていないであろうその目を、赤ん坊はクリクリと動かした。軽く「ウっ」という声を出し、天井の方のどこかを見ていた。
キッチンの方から、母親と母親の妹、祖母の話し声が聴こえてきた。
「誰に似てる?あの目はやっぱりお姉ちゃん?」と妹は言った。
祖母は悪い左膝を庇うように狭い椅子に腰を下ろして言った。「そうね、あの目はお母さん似ね。でも、おじさんにも似てるから、やっぱりこちらの系統かね」
「パパに似てるって助産師さんは言ってたよ」と母親は言った。
「言われてみればそうかも。でも、誰似でもいいんじゃない?」妹は少し自信なさげにそう言った。
いつの間にか父親は息を潜めていた。
義理の家族が交わすとりとめもない会話に耳を向けながら、じっと何かを耐えるような体勢で赤ん坊の傍に座っていた。
赤ん坊がえずく仕草をしたので、父親はすぐに抱き上げ、お尻を軽くポンポンと叩いた。それから、部屋をゆっくりとリズミカルに周回しはじめた。
ステラ・ルーという名のウサギのぬいぐるみや干してある小さな靴下たちに、「ほら挨拶して」と呼びかけても赤ん坊の機嫌はなかなか良くならなかった。
キッチンからふたたび話し声が聴こえてきた。
「お宮参りの着物、あの袋に入ってるからね。それから、除菌タオル…アルコールのやつね、それとお尻拭きと何かと入用になる洗浄綿入れといた」……「お姉ちゃん、お兄がよろしくだって。うん、それだけ」…「あの子の名前受付の人が読めないってボソッと言っててあーって思った」
父親は今にも泣きだしそうな赤ん坊を抱っこして、ミッキーマウス・マーチの歌を口ずさんでいた。この歌を聴かせると、なぜか泣き止むことがあることを父親は知っていた。
部屋をくるくるとあてのない回遊魚のように父と娘はミッキーマウス・マーチの歌と共に泳いでいた。だが、それにも我慢できず、やがて赤ん坊は泣き出してしまった。
聞きつけた母親がドア越しに「大丈夫?」という一言を投げかけた。
それには何も答えず父親はもうしばらく自分でなんとかしようと頑張っていた。しかし、赤ん坊の泣き方はいよいよ本格的になってきた。
見兼ねた母親が部屋に入ってきて、父親の手から赤ん坊を引き受けた。しばらくすると赤ん坊は落ち着き始めた。
「おっぱいかも。ちょっとあげるね、適当に対応してて」と母親は父親に耳打ちした。
キッチンへのドアを開けると、二人はちょうどアルバムか何かを見ているところだった。
父親は何を言っていいか分からず、「ミッキーの歌をうたうと泣き止むんです。でも、今はどうも違ったみたいで」と笑った。
父親の顔には意味ありげな、それでいて独言のような含み笑いが張りついていた。
二人は振り向いて顔を見合わすと少しだけ笑って頷き、後は何も言わずにふたたびアルバムの写真に目を落とした。
父親は手に持っていたおしゃぶりを流しに置き、洗っていない哺乳瓶を洗うおうとしたが思い直し部屋の方へ取って返すと、ドアの細い隙間から母親にこう尋ねた。
「次のミルクって何時かな?哺乳瓶の洗浄いました方がいい?」
母親はおっぱいをくれながら顔を上げず、「8時かな、分からない。そういうの、自分で考えてくれる?」とだけ言った。
「あ…、だね。」父親はそれだけ言ってドアを閉めた。
午後もだいぶ暮れてきており、時刻はもう五時を過ぎようとしていた。相変わらず二人の義理の家族はアルバムを眺めながら昔話をしていた。
「おっぱい中です」父親はちょっとだけ悪戯っぽく口に人差し指を立ててみせた。それを見た妹だけは同じように悪戯っぽくうなずいてくれたが、祖母はしきりにアルバムに齧り付いてうつむいたままだった。
父親は覚られないように深呼吸をすると、洗い掛けの哺乳瓶がある流しへと引き返した。それはちょうど、西側の磨りガラスの窓から鈍い光が射し込んできている時のことだった。