壊疽した旅行者 五
ただのみきや

インセンス

火を点けて
饒舌な沈黙の眼差しと
爛熟の吐息で苛みながら
突く牛の潤んだ目
獅子の尾で打ち据えた
定理のない
地獄をひとひら移植して
ねぶられ食まれ灼熱に
解き放たれる悦楽に
匂い立ってはゆらめいて
透けて往く
おぼろに踊るその最中
灰は想わず
喪失だけを遠くはためかせ
言葉は骨壺




日向の死体

日向に揺れるクロッカス
想われるよりも忘れられ
日は瞑り 月は見る
たらいに溢れた気狂いの
絞められるような春の声
惜しげもなく捧げられ
影のように移ろって
心地のよさに違和はなく
絹のように捲られる
踏み荒らされた庭先で
光が嬲るうなだれた
うなじの白さ視姦して




求痛者

見ることを拒み瞼に潜り込んだ
このまま光に埋もれて木乃伊ミイラになって
時間は広大な流刑地
あれこれ行き巡ってもたかだか数歩でも
どこかで野垂れ死ぬ座標が違うだけ
ラジオが何か言いたげだ
アンテナを張り伸ばしチューナーも細心
足下には澄んだ夜が流れていた
群れても孤独な動物もいる
一人になっても群れから抜けられない動物も
聞くことを拒み耳へ詰め込んだ
銃弾は冷たく沈み
記憶を溶解する海は
慈愛に満ちたスープだった
遠く離れても影響し合い
星々は時に滅ぼし合う
美しい独りよがりたちの
素顔は氷や石
時にガスでしかない
だから隕石のように今ここに在る
人々ではなくひとりの人が
孤独な真空を懐かしがることすら
論じるには言葉は次元を一つ欠き
最も遠い落日に
背中合わせに旅立った亀とは
巡り合うことはない
石を枕に眠る者に天の梯子が
再び降りることがないのと同じように
そう言ってラジオはこと切れた
風の中のノイズ
あの歓喜と愛嬌は
賽の河原を往く蝶だったか
時以前
だれかが釘を打った
なにもないところに音だけが響き
すべては一つの痛点から始まった




この辺りの春

この辺りの春はいつも遅れて来る
暦など全く無視
遠くから聞こえる祭囃子
いつまでも境を周って町へ来ない神輿
近づいたと思えばまた遠のいて
じらすことを楽しんでいるかのよう

ようやくやって来た
一陣の風 薄衣一枚くぐるよう 
あっという間に花が咲き花が散り――

そこには初夏
少年のように拒みようのない面持ちの




幸福は悲しい

父親と母親と二人の男の子がサッカーをしている
緊急事態宣言が出された
ひと気のない 朝の公園で
父親と母親がパスを回し二人の子どもが追いかける
まだ小さい下の子は
走っても走っても追いつけない
それでもきっと楽しいのだろうけど
赤の他人のことなのに
見ているとやるせなく
離れた車の中から
蹴らせてやれよと呟やいていた
父親は心得があるようで蹴るのが様になっている
やっとのことで下の子にボールが回り
――ゴールキック
父親と母親が拍手する
おそらくそれは幸福にごく近いもので
悲しみとは傍観者の彩色なのだろう
2020年4月 土曜の朝
世界中に疫病が蔓延していても
幸福とはこのようなもので
安物のクッキーみたいに素朴で
それすら食べられない人もいて
羨やんだり小馬鹿にしたりする
かたちも定義も曖昧でつかみどころもないのに
肌ざわりや匂いはだけが残ってしまう
仮にわたしが祈ったとしても
(彼らが守られて感染しませんように )
そうやって傾いだ小舟を櫂で切るように
嫌なものでも見たかのように
静謐の水面
死体の花咲く湖へと逃げただけのこと




余白

余白の広い詩がある
わたしは朦朧もうろうと余白を眺めている
どこまでも澄んでいながら
何も見えない 絶対無の怖さ

詩文は詩の足跡
ここで途切れ
何処へ去ったのか
崖っぷちから眺めている




                   《2020年4月19日》










自由詩 壊疽した旅行者 五 Copyright ただのみきや 2020-04-19 13:06:18
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