ネット詩とビート
藤原 実


  「ネット詩とビート」


「テレビは深い参与を求める様式であるから、若い詩人たちが突然に喫茶店や公園、その他あらゆる場所で自分の詩を朗読する事態を引き起こした。テレビ以後、詩人たちは突然に大衆とじかに接触する必要を感じたのである。」                          (『メディア論』M・マクルーハン/みすず書房)


「メディアはメッセージである」で知られるマーシャル・マクルーハンは“テレビ時代の予言者”として六十年代にセンセーションを巻き起こしたのですが、そのあまりにもとっぴに思える言辞ゆえでしょうか、熱狂がさめるとともにあっというまに忘れ去られた存在になってしまいました。ところが九十年代以降のインターネットに代表される電子文化の急速な革新によって、彼の数々の予言的言辞がにわかに現実味を帯びてきて今ふたたび注目され、彼の理論が再評価されつつあるようです。

上の引用は五十年代のビート詩人たちが朗読会という形式によって支持の輪を広げていった様子についてのマクルーハンの見方なのですが、マクルーハンは、書物、新聞、ラジオなどの情報が完成された姿でパッケージされたメディアを「hot」、はなしコトバ、テレビ、電話などの流動的な情報を伝えるメディアを「cool」と名付けています。

そして「熱い形式は排除し、冷たい形式は包含する」と言い、「cool」なメディアは「与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならない」ためにひとびとのメディアに対する積極的な参加意欲を触発するというのです。
テレビという新しいメディアの影響をもっとも鋭敏にうけとめたのがビート詩人たちと朗読会におしかけた聴衆だったというのです。

このテレビの部分をインターネットに置き換えれば現在ブームであるという日本のポエトリーリーディングにあてはめることができるのではないでしょうか。
そしてビート詩についてのさまざまな論は、ネットの詩に関連づけて読むことができるような気がします。

たとえばポール・グッドマンの『不条理に育つ』(片桐ユズル訳/平凡社)はビートジェネレーションについての「最初にして最上の分析」(片桐)ですが、ビートに対する彼の言及をネットの現状にあてはめて読むこともできるように思うのです。


「彼らはこれらの芸術に対して正直にはげみ、まじめに専念し、つつましい作品についてじまんしすぎたりしないが、一方、彼らはたえず相互に、あるいは通行人にきかせたり、よませたりし、「最高だ!」とうなっては、その共同体を元気づけることをしている。

そのような創造的行為は感覚をするどくし、感情を解放し洗練し、共同体の強いきずなである。それはそれ自体においては芸術作品の制作とか、芸術家の犠牲的な悲惨な生活とはなんの関係もない。それは個人的な開発であり、フィンガー・ペインテングとそれほどちがいない。

さきほどのべた会話とおなじくそれの目的は行動と自己表現であり、文化や価値の創造や、あの世での相異を生み出すことではない。もちろん、それがわるいという理由はない。すべての人間は創造的だが、芸術家は少数だ。芸術制作には特殊な精神病的傾向が必要だ。

これらの少数の人間はビートではない、というのは、彼らは天職をもち、身をひいてはいないのだから。(わたしの観察では、もし芸術家がその天職においてさまたげられたら、彼らは身をひいて他の経験をもとめることなどできない。そしてフィンガー・ペインテングなどやるはずがない、というのはもしフィンガー・ペインテングができるくらいなら、彼らは芸術をつくれる。)


      (中略)

スポークスマン芸術家と客観的文化の関係を示す、もっと簡単な例がある。この男はもっと弱い詩人で、もっとビートにちかいといえようか。しかしうぬぼれが強かった。ビート・スポークスマンではない、ほかの詩人の朗読会で、朗読をやめさせようとして、彼はさけんだ、「こんなガラクタをきくな!Xをきこう!」彼の策略は、自分の地域だけが現存する文化であるようにしよう、ということだった。そうすれば自動的に、彼は芸術家となる。
                   (グッドマン『不条理に育つ』---IX 早くも身をひいて)



   「エミリ・ディキンスン 」


「親愛なる友よ------手紙は、肉体という友人がなく精神だけなので、私にはいつも不滅のように感じられます。」
              (『エミリ・ディキンスンの手紙』山川瑞明、武田雅子編訳/弓書房、より)

 


ネット詩がニュー・ビートだとしても、ぼくじしんは詩朗読というのに強い興味はないし、ビート詩がとくに好きなわけでもない。たとえばギンズバーグは嫌いじゃないが、あの予言者ふうのおおげさなくちぶりをすっかり受け入れるのはなんだか恥ずかしい。

むしろその対極にあるようなディキンスンなどが米詩では好きだ。
『エミリ・ディキンスン---天国獲得のストラテジー』(稲田勝彦著/金星堂)は「私が詩の中の人物として私自身を表す時、それは私ではなくてある想定された人物です」というディキンスンのコトバをひきながら、彼女の詩のなかのさまざまなペルソナの変遷を「ディキンスンの詩は彼女がさまざまな戦略を用いて天国を獲得しようとしたその試みの軌跡である」とする視点からディキンスン像にせまろうとするもので、彼女のアイデンティティーの複雑さをキーツのいわゆる『自己滅却』と結びつけていて興味深かった。


      詩人はただランプをともし
      みずからは消えてしまう
      彼らは芯を刺激する
      もし生きた光りが


      太陽のように自身で燃えるなら
      時代はそれぞれレンズとなり
      その円周を
      広げていく

        (新倉俊一訳)



ディキンスンはいまでいう「ひきこもり」みたいなひとだったらしい。そういう意味でもいまあらためて読まれてもいいのではないだろうか。

もし彼女がこの時代に生きていたら、ネット詩人として活動するだろうか。彼女は手紙を書くのは苦でなかったようだから、そんな感覚でそっと詩の掲示板に書き込みなどすることはあるかもしれない。
でも朗読会のマイクの前に立つことはけっしてないだろうと思われる。


わたしたちの時代のエミリ・ディキンスンがかならずどこかにいるはずである。朗読会の喧噪とは無縁のどこかに。



散文(批評随筆小説等) ネット詩とビート Copyright 藤原 実 2005-04-11 02:45:47
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