切花の春、時期、花瓶をあらうのこと
はるな
こどもが陽に反射してきらきらひかっている。よく見るとセーターに縫い付けられたスパンコールがいちいち光を跳ねかえしているのだった。
切花の世界は春を迎える。ラナンキュラス、チューリップ、スイトピー、アネモネ。花びらのうすいかわいいみんなたち、もうしばらく続くはずの寒さのなかで一層あかるい。
湯をわかし、床をみがいて、花をかざる。その平和のために必要ないくつかの覚悟や嘘、日常的な奇跡。わたしたちに訪れる途方もない決断のあれこれ、電池残量が気になるし、陽の暮れる前にかえろうね。
「ねーまま、かがみないときどーやってじぶんみるかしってる?はなできるよ、ままのめーこーやってみるとほら、はなうつってるから見えるよ。目えつぶらないでね、そしたらままもじぶんのことみえるでしょ?」
いろんな時期がありますよね。
ってなにかの本に書いてあった、それはもう随分まえに読んだので、 いまやわたしの背骨になった。(背骨は色々なものからできていて、その全部がなにかはもうよくわからない。)
幼い頃から読んできたたくさんの物語がいまのわたしをたしかに救っていて、でも昔のようにもう文章を読むことができない。起きてから眠るまで、ごくごく飲むみたいな読書体験は、もうすることができない。それはちょっと残念におもうし、むすめもいつかそういう体験ができたら良い。絵や文を書いたりするのも同じ、自分がもう以前のようには渇いていないことがわかる。
けれど写真はすこし違うのかな、と感じている。(世界はそもそものはじめから美しく、そしてわたしは世界ではない。)
(そしてあなたも世界ではない。)
だからまた写真や絵について知ろうとしている、花をはじめから学ぶのと同じだけたのしい。
むすめは自分の名前の書き方を覚えた。咲いているように書くからかわいいんだよ。
街で花屋の看板をみつけるたびに嬉しそうに指さすのも愛しい。まるい手で握りしめるように持つえんぴつの角度、いまに直ってしまうだろうな。
光るプラスチック、スパンコールのついてるセーター、毛糸かざりでできたゴム。子どもの選ぶものってかんたんに壊れる、大事にするのだって覚えるまではできないよ。
そうしてそのやり方が正しいかどうかも、いつまでもわからない。物事に良いだけのことも、悪いだけのこともなくて、わたしは四つ目の鉢を腐らせてしまった。水をあげすぎてしまう、いつも、だからきちんと枯れる切花を買ってきては、せかせかと花瓶をあらっているのだ。
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