サイレンス
la_feminite_nue(死に巫女)

 それは前に進む落下。わたしは音のない世界に迷いこみ、無音の音を聞く。それは花。それは実。それは果実。それは乳房。──それは女。それは男。林檎は世界を映しあったまま、白い広がりへと吸い込まれていく。──それは世界。林檎は音のない世界で、砂のように溶け去る。地に触れた瞬間、ゆるやかに空を泡立てて。楓は言う、「それはあなたのなかにある世界」。それに答える男の瞳はうつろだ。その目のなかに、無数の林檎が映し出す色彩が刷り込まれている。それは花、それは実。それは果実、それは生殖器。ミツバチが花粉を運んでいくように、世界球から世界球へと一つの糸が橋渡しされる。それは後戻りする倦怠。アンニュイの音のない調べ。わたしは音のない世界に迷いこみ、そこには楓が立ち尽くしている。メイプル……ひとつの幻想の物語。それは前に進む落下、地に触れて溶けた林檎の色素は、光のように砂のように空へと散らばっていく。わたしの楓。わたしのもとではない楓。愛情の文言は聖書のなかに記されたまま、何世紀もの時を忘れさられる。科学者たちはそこに真実を見つける、欺瞞ではなく。それは前へと進んでいく落下。原初の生物のように、わたしたちは後戻りの出来ない旅路を進める。そこに一人の男がいて、何気ない疑問を呈するだろう。無音の世界にある、無音の音を聞く。わずかな空の振動が、わたしの耳膜へとたどり着く。そのころには、楓は街のパン屋にあってペストリーを買っているのだろう、1個わずかに160円の品を。街路樹と街路樹のあいだに、少しの間隙として舗石はある。何ものをも物語らない日常に吹く風、それもまた無音。シルクスクリーンに描かれた幻想の絵画のように、見ず知らずの者はそこに筆を加える。夏はそこにあっただろうか。今は冬、秋の時間を経て……。楓は失恋の痛みを抱えたまま、男のそばに寄り添う。そして言う、「わたしは貴方を愛していなかった」と。男は無言で立ち尽くしたまま、彼女の姿を決してみない。サイレントの映画のように、そこにも音はなく。あなたは音のない世界に迷いこみ、無音の音に翻る。いつかそれはわたしであり、わたしではない。楓は本を閉じて、その夜の眠りに就く。眠りに就くのだろう。それは書き止められた一片の物語で、彼女のなかにある何物かをメロディーにしたものだ。それも不協和音の、振動数だけを抱えて。わたしは男のそばをすれ違い、市井の世界のなかに溶け込んでいく。そのころ林檎は、世界のなかに降っている。地に触れた林檎は音もなく砂のように崩れる。そこから先に進む場所はない、と楓が気づいたとき、彼女は物語のなかにいる女性だということを自ら知る。わたしの楓。楓であるわたし。そこは音のない世界、無音の砂漠。ミツバチが蜜を運んでいくように、かすかな交替だけが行われる世界。そして、空そのものがメタモルフォーゼを迎える。きっと、わたしは楓や男が描く物語の一つなのだろう。今日も誰もいない街の死角で、朝の光と夕べの光とが違うということを確かめている。ペストリーには砂糖漬けのシロップがかかっている。世界球から世界球へと、一つの糸が橋渡しされる。


自由詩 サイレンス Copyright la_feminite_nue(死に巫女) 2019-09-06 15:12:47
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