<詩「あるなんでもない日」、「白き神の抱擁」、「婚礼」、「カフェ」「君の来る日」、「山城合戦」、「冬...
タカンタ、ゴロキ、そしてパウロ
詩
「あるなんでもない日」
空を白銀のかんざしが通りすぎてゆく
光と風とささやきを残して
ぼくは学校の屋上から彼らを撃った
どうしてそんなことをしたの
月曜日が嫌いだったから
窓から外を見ると雪が舞っている
かつてある少女が北の国に住んでいた
少女はぼくを愛し、ぼくはきみを愛した
きみは今どこにいるのだろうか
雪の中に見えるきみはあの時のきみなのか
毛糸の帽子が似合うきみが手袋をはめた手に息を吹きかけると
それは白い霞となって消えていく
どうしてそんなことをしたの
月曜日がきらいだったから
いつの日か空を歩こう きみといっしょに
「白き神の抱擁」
白い思春期のもとで
恋が燃えさかりすべてを輝かせていた
あなたとわたしがもたれていた紺碧の空よ
あなたの愛は子どものように破廉恥に似ていつも笑っている
あなたの黒髪の煌きが光を掻き乱すなかで
わたしは木の葉の海で空色の風を感じ
永遠が歩む瞬間の狭間で
身もだえする豊満なあなたの背中を抱いていた
叢は戯れあなたは無垢にかえり
わたしはあなたのあらゆるところに接吻をし
あなたの吐息のような声を聴くと
時を超えた幼い夢が心をかけめぐり
かすかな谺が林のなかに響きわたり
紅い唇が空を引き裂いてゆく
そして今
わたしはあなたが喉や動脈を震わせて歌うときの甘美さに憧れている
美しいひとよ
みずみずしい碧の色にまばたく眸と
雪のように耀く眩い乳房が
あなたの白い裸身がわたしを死なせてしまう恍惚に撃ち落とす
純潔よ
神に身を捧げたわたしの秘密を
蜜蜂が集めたあなたの黄金が突き崩してしまった
神の恩寵とは何だろうか
わたしたちの水辺から
霧のけむる湖水から水鳥の飛翔が空をゆき、その力は神のようだ
あなたのふたつの薔薇の蕾みとわたしの溜息に
ゆるやかにせせらぎは青い葉と木立ちを運んで
わたしは想う
空と水の境界は蒼く霞みなんと美しいのだろうかと
「婚礼」
岸辺から聴こえてくる
水音が、鶯の声が
ぼくの川で
森の上で風がわたり、足音がすると
ひとりの女性が降りてきた
爽やかで澄み切った顔に光が映え
緑の群れが彼女を祝福するように萌えている
川に揺れる水草の緑の流れと煌きが
彼女の黒髪に嫋やかな模様を作りだす
そのひとの婚礼は間近だ
ぼくは不思議な光景を見ると
緩やかな記憶の流れをくだり
小暗い叢に横たわって
愛すべきその影に聞き耳を立てた
彼女は水を手に汲み、それを飲むと眼を閉じて伸びをする
森の虫たちが風の鐘を鳴らし
夢の中のように飛び始めた
「カフェ」
木立が夕暮れを見捨てるころ
小さなカフェに入る扉の向こうで
忙しく働くきみが見える
記憶の流れが時間に逆らう
束の間の戯れ
かつて幼き年に雪は今のように
降り積もって
屋根を白く光らせ
きみとぼくは校庭をかけた
冬に近い雨の日の帰り道
ぼくは街路樹の木の葉の秘密を
解きたいと考えていた
その時、きみがカフェに入る姿を
見かけたのだ
思い出のベールが剥がされてゆく
痛みをぼくは感じ
きみの入れた珈琲に口をつければ
心は蒼い水に溢れる
薄れた遠いころを語りかける眼に
きみの記憶が蘇る人間的な瞬間に出逢えば
ぼくは心の白さを露わにするだろう
ただ、肩が雪に打たれている
この甘美な時を残すべきか
ぼくは迷っている
「君の来る日」
僕が去ろうとするこの街に
君が越してくることを友人に聞いた
僕は駅のホームで
八時五分着の特急を待っている
あの六月の夕方、庭園の小道で
君と友人のあとを自転車で追いかけた
髪に揺れる紫の蝶結びは紫揚羽が飛んでいるように見えた
突然の雨、あずまやでのひととき
次の日、女友達を連れないで君はひとりで来た
みずうみに浮かべたボートが橋の下を通り過ぎる
まばゆい光がオールの水にきらめき
そして、告白と確かめるような口づけ
手紙を交わし合った三年間の愛の日々
吹雪の中で会った時、君は毛皮のコート
君は寒さに強くて、僕は君に暖められた
そして別れ
しかし、君の印象的な茶色の目
優美な鼻筋
頬のうぶ毛の輝きを
僕は忘れたことはない
僕は君をホームで待っている
早朝だ、今は夕暮れではない
日の光に映る全ての形が違っていることからそれは明らかだ
その時、ビルのガラスの反射の眩しさを受けて僕は悟ったのだ
君との恋は終わったのだということを
君が来ることを知ってからの七日間
僕は幸福だった
僕は思い出し、君もまた思い出の中にしかいない
僕はどこに行くとも知れぬ電車に乗り込みうとうとと眠りはじめた
「山城合戦」
乱れし世も末なりけれども
山に小さき城ありけり
城主は無双の勇将にして一騎当千の兵なれば天下人の威令に服し参らず
右府大いに怒って、されば攻めよとて討手をつかわす
右府の軍、七日の卯の刻の矢合せと定めたりければ
七日のあけぼの、山の大手より二万余騎、
雲霞のごとくに攻め上れば
搦手より一万余騎、鬨をどつと合はす
城の兵どもいつの為に命を惜しむべきかと戦えども多くは討たれにけり
若狭介、さんざん首をとりて後、矢七つ八つ射立てられて立死にこそ死にけれ
さして、城は燃え落ちたり
しかれども、姫は夜陰にまぎれて逃げ落ちぬ
朝、冷たき澄みし空の下
姫は川の裾野の住人に助けを求めたり
されども、誰も庇いまいらず
いやなことなり、いかにもなりたまえ
ただ一人、婆のみぞ姫を粗末な家にいれたまう
婆、姫に粥を馳走す
姫、婆さまと田植えすること眼に浮かぶように感じそうずる
ふと見れば、囲炉裏の前にお手玉あり
そは、孫のために編みけり
姫、しばしそのお手玉にて遊べり
何ゆえに、われは婆さまの子に生まれざりしか
姫、大きなる眼に涙をため、そを嘆き悲しむ
忘れ草なら一本欲しや、植えて育てて見て忘る
されども、右府の兵、婆の家に迫れり
姫さま、早う、逃げなされ
姫、戸を開け、振り返り振り返り、泣きながら逃げはしる
兵の手、姫の黒髪をつかみしとしたとき、姫、川に身を投げぬ
忘れ草をも植えては見たが、あとに思いの根が残る
数年の後、城焼けし跡はみずみずしき緑にあふれけれ
「冬の街」
黒い廊下の奥の微笑
あなたの薔薇色の唇が
死者と雪の帯が
蒼白い樹氷を照らしていた
冬の街
鶫が羽ばたいていた
そして破壊された地に吹雪はきた
それから物言わぬ書物、先の空き地、ハンマーの音
ほんのすこしの光、氷った女神の輝ける美
静寂の霧、凍りついた草原
慰め、誠、自由、愛
最後に倒れていたぼくたちが歩きはじめた
散文詩
※以下の作品は、作成中の小説「由梨絵(施設に住む子供たちの物語)」の草稿断片を散文詩として再構成したものです。
「スケート場にて」
ある寒い日の午後、幸恵さんがあたしたちの部屋のドアを軽くたたき、それを開けると顔を見せた。
「入ってもいいかしら」「もちろん」初香が答えた。幸恵さんは優雅な足取りで入ってくるとあたし
たちに尋ねた。「気分はどう」。何も答えないで琴葉が立ち上がると彼女に抱きついた。幸恵さんは
あたしたちの顔を優しく見まわしてから言った。「提案があるの」。あたしたちは緑色の風が吹きは
じめるような予感を覚えて彼女を見た。「今度の日曜日にスケート場に行かない」。あたしたちは喜
びのあまり歓声をあげた。
雪がひとときの休みを迎えた朝に、あたしは期待に胸を高ぶらせながら眼を覚ました。窓からは冬
の冷たい光が差し込み、あたしたちの顔を薄霞が包んでいるかのようにおぼろげに見せていた。あた
しは周りを見回した。葵衣も琴葉、初香も起きていた。もしかすると眠れなかったのかもしれない。
街には行ったことことのないあたしたちには、それは新しい世界への扉をひらくことだった。
あたしたちは、幸恵さんと車に乗って街に向かった。森から街に通じる道は白銀の世界だった。木
の梢から雪が落ちた。それは雪の静寂をあたしに感じさせた。しばらくすると雪が降り始めた。あた
しはその雪を子ども時代の幸せな年月の最後の風景として思い出す。この先に待っているであろう悲
しい出来事が雪の無垢と純粋さによって浄められるかもしれない。そしてあたしたちはスケート場で
幸せな時間を過ごすのだ。雪は夢の中でのように降り続き、あたしの吐く息で車の窓が白く曇った。
幸恵さんの洗練された身のこなしと愛を語りかけるような話し方が、あたしに彼女への尊敬の念を
いだかせた。
車が街に入った。
眼の前に大きな時計台が見えた。雪にうっすらと覆われた時計の文字盤は希望と喜びの白い顔をあ
たしたちに向けていた。その針はゆっくりと時を進め、あたしたちに新しい世界を始動させるだろう。
道の両端の灰色の建物や雪に白く覆われた店の屋根が動き始め、あたしたちを未だ知らぬ空間へと連
れ去ってゆく。道を人、ひとの群れが大股で進んでいくにつれて、あたしたちの後ろに退いていく。
道を歩く人の顔始め蒼白かった。娘の手を引いた母親は丸い体を茶色の毛皮外套に包んで僧侶のよう
に見えた。小さな男の子と女の子が手を繋いで歩いているのを見てあたしは微笑み、それは、あたし
に幸せな時間の訪れを感じさせた。
あたしたちの眼の前に大きなまるい形をした白い寺院のような建物が見えた。「着いたわよ」幸恵
さんが笑みを浮かべながら振り向いて言った。あたしたちは車を降り、小道をスケート場の方に向か
って歩いていった。こざっぱりとした外套に身を包んだひとたちが小道に群がっていた。あたしたち
は、さらに歩いていった。すると、眼の前にスケート場がひらけ、滑っている人たちの姿が見えた。
素晴らしい氷。銀盤は広く、あたしたちがいつも行く凍りついた湖とは比較にならなかった。あたし
は歓喜と緊張から足がふるえた。「まあ、すばらしいスケーターさんたち、どうしたの、滑りましょ
う」。彼女は長い足を上げて氷面をひと蹴りすると銀盤のまんなかに向かって滑ってゆき、真っ直ぐ
にもどってくると、誘うような微笑みを浮かべてうなずき、あたしたちに手を大きくひらいた。あた
したちは、幸恵さんの後についてスケート靴を進めた。彼女は葵衣の手袋をはめたかわいらしい手を
ひくと美しい笑みをうかべて後ろに滑り始めた。
あたしたちは彼女と螺旋を描くように滑り出し、少しずつ頬に冷たく爽やかな風を感じていった。
幸恵さんとあたしたちは白い毛皮の帽子をかぶっていた。背が高くほっそりとした長い手足を伸ば
して清らかに凛として銀盤に優雅な舞いを見せる彼女の氷の精霊のように繊細で煌めくような姿に導
かれて、あたしたちは新しい湖に氷塵の散る透明な軌跡を描いた。
あたしの前を黒い毛皮にくるまれて幼少期をぬけようとするころにさしかかった男の子が顔を真っ
青にして涙をため茶色の手袋を氷につけてあたしたちのとなりに座りこんでいた。あたしは母親を探
しているであろう幼な児の顔を見て思わず胸に手をあてて微笑みをおさえようとした。
そして幸せな時間は掌に落ちた雪のように流れていったわ。
スケート場を出る時に幸恵さんがあたしたちの前に腰をおろして言った。「わたしは、あなたたち
が幸せになることを約束するわ、わたしを信じてね」あたしたちは彼女の言葉にうなずいた。
帰りの車の中で、あたしたちは、ずっと黙りこんでいた。街を出る時に時計台が見え、その大きな
黒い時計の針は確実に時間を進めていた。雪は止み、車の窓から見える風景は寂しい静寂をあたしに
感じさせた。幸恵さんの顔は少し蒼白く厳しい表情を浮かべているように見え、あたしは彼女の表情
の変化が何を意味しているのか思いあぐね、意識は幸福の余韻とすぐ先に迎えるその日への恐れとの
あいだで揺れ動いていた。
「杉谷家にて」
あたしは富裕な慈善家の女性にひきとられた。
あたしの住みはじめる館は芝生の薄い波が海の小弯に向かって続いている小高い丘の上に建ち、庭
には美しい幹を見せる白樺とぶなと名前のわからない木々、鯉の泳ぐ小さな池の周りには水仙が咲い
ていた。その隣にある花壇には、紫陽花や石楠花などの花が忘れないでと訴えるかのように西風に揺
れながら背の高さを競っている。ただ、あたしの好きな薔薇はなかった。門から玄関にかけては青緑
色に切れ切れに白い稜線のある敷石が並べられていて、その上を柔らかい陽光が斑な縞模様を注いで
いた。そして、今。館に到着したその日から美しい苔むした飛び石の流れを踏みしめることになるの
であり、その光の反射があたしに強い目眩を感じさせた。
館の近くには公園があり、あたしは、その公園の砂場と遊具の側を歩くたびに今ではなく過去を生
きているような気がするのだった。それが何故なのかはわからないわ。あたしを包むものは北国の静
寂から海の風に変わった。あたしは海を見るのは初めてだった。その崖に打ち寄せる荒波があたしを
寂寥に導いていく。
あたしの養親は若くして夫に先立たれた女性であり、ただ、再婚する気はなく、詩織は慈子様のひ
とり娘だった。慈子様は美しく詩織もまた近いのちに、煌めく貴婦人の美貌を想起させた。二階の廊
下の壁には夫婦の肖像画がかけられており、詩織もまたその隣に掲げられるのだろうかと、あたしは
思った。図書館には多くの本があり、慈子様はあたしに好きなだけ読むことを勧めた。その書物の言
葉は、あたしに知性と教養を与えてくれるだろう。
詩織は奥行きがあり木目のはっきりした板の張られた壁が気持ちのいい部屋に暮らしていた。子ど
もには少し大きすぎるかもしれない机と、革のソファに木のベッド、高価なアンティークの家具があ
った。窓を開けると気持ちのいい海の空気が流れ込み、いつも新鮮な初夏の香りを生み出していた。
あたしの部屋も家具もおなじ間取りと造り。
杉谷家に来た次の日の夕暮れに、あたしは詩織の部屋へお茶に招待された。
彼女は話をしているあいだ、あたしを見て時々微笑した。詩織の想像していた以上の優しさがあた
しをほっとさせ、そして、彼女が素晴らしく溌剌として深窓の令嬢でありながら渙発な輝きを持ち、
その美しさが親しみを増してくるたびにあたしはこの館にいるのだという現実感が浮き上がり、それ
をしっかりと保とうとした。彼女の眼は眩しかった。あたしが思わず顔を俯けると、「どうしたの、
わたしの眼を見ないとだめよ、恥ずかしがらないで、ねえ、わたしってとても変わっているのよ」。
詩織は薬指であたしの頬を跳ね刺すしぐさをした。「そしてね、女の子というものは、幼い時、この
春を生きているうちは背中に小さな羽みたいなものがあるだけなのよ、そうしてね、夏がきて恋をす
るとそれが鳥の翼になるのだわ。そうね、わたしはなぜだかわからないけれど、あなたが好きになっ
てしまったの、だからね、恋はあなたとしかしないつもりよ」。彼女は背中をそらして胸を波打たせ
ながら鼻と唇を手で押さえて笑った。あたしは意味がわからないまま彼女を見つめかえし、しかしな
ぜか不思議な愛情を感じたのである。
「幸恵さんへの手紙」
親愛なる幸恵さんへ
あたしが施設を出た、そう、幸恵さんと、初香さん、葵衣さん、琴葉さんとお別れした日、不安と
寂しさでいっぱいでしたけれども、それは大違いで、とても気持ちのいい人たちと大きな古くて素敵
な家が待っていました。海に近くて、その小弯から続く芝生の波の先にある小高い丘の上にその家は
建っています。庭には鯉の泳ぐ小さな池とその周りには水仙が、その隣にある花壇には石楠花などの
花が咲いています。白樺やぶなの木が家と庭を囲んでいて、そのなかでもとても背の高い白樺の木を
あたしはすっかり好きになってしまいました。
では、とても大切な杉谷家の人たちのことを書きますね。あたしの養親になった慈子様はとても綺
麗な方、うちの庭がとてもお好きなようで、空が青い間はよく外にでています。それが適度にお体に
いいようで、だから快活な美しさが保たれているのだろうと思います。実は家の壁は葡萄の蔓で覆わ
れています。ですから家が土から緑を通して繋がっているように見えます。そしてその葡萄の美味し
かったことといったら。
慈子様の娘である詩織さんはお母様にとてもよく似ていて、あたしと同い年の十五歳です。ご夫婦
の肖像画が二階の廊下の壁に掛けられているのですけれど、近い将来、詩織さんの肖像画も隣になら
ぶのではないかと予想しています。あたしの肖像画も描かれたら嬉しいのですけれど。詩織さんとあ
たしの部屋の造りはそっくりで、窓は海に向いていて、だから窓を開けると海が初夏の香りを運んで
きます。今は、秋から冬にかかる季節ですけれども、いつも春から夏に変わる頃の匂いがするのです。
数日前には、詩織さんにお茶に招かれました。いろいろと楽しくお話をしたのですけれども、そこ
でわかったことは、彼女が明朗で、あたしを真綿で包んでくれるような優しい娘さんだということで
す。しかも、彼女はとてもあたしが気に入ったようすで、「あなたが好きよ」と言って手を握った後、
頬擦りをしてくれました。
弟夫妻も遊びに来られました。
弟さんもその奥様である奈津美さんもあたしに優しく接してくれました。
そうそう、あたしは碧綺門女子高等学校に入学することになりました。あたしは詩織さんと同じ英
語特進クラスに入りました。あたしは彼女に教えを請いながらそばにいてもらうほうがいいという慈
子様のお考えらしいです。また、慈子様は学校の理事ですし、あたしの知識と素質を確かめたうえで
進学先をお決めになられました。初めて席についた時は、気品のある制服を着たきれいなたくさんの
生徒たちのなかでとても緊張しました。みな淑やかで鈴のような澄んだ声で話すお嬢様ばかりです。
授業中、先生にみんなのまえで教科書のある随筆の一節を朗読するように仰られて涙がこぼれそうに
なりました。でも、気を取り直してきちんと読めました。なんとか学校にはこれからも通えそうです。
初香さん、葵衣さん、琴葉さんは元気にしていますか。あたしは、彼女たちにも手紙を書きますね。
幸恵さんからのお返事を楽しみに待っています。
由梨絵
「幸恵さんからの手紙」
親愛なる由梨絵さんへ
心のこもった丁寧なお手紙、有難うございます。
まだ、杉谷家の娘になったばかりで緊張の毎日だと思いますが、あなたはそれを素敵で優しい言葉
にして送ってくださいましたね。私は、それからあなたの変わらぬ誠実さと好意以上のものを感じました。
杉谷家の方が思いやりのあるひとたちであることは信じていましたけれども、そのとおりであった
ことを知って、安心しました。詩織さんは、あなたと最も親しい生涯の友人になれたようですね。姉
妹であるのに友人だなんておかしいように感じるかもしれませんけれど、生涯の縁を幸運にも授けら
れたことをあなたはいつも心においておくべきだと私は思いますし、それが由梨絵さんの生きていく
うえでの助けとなるでしょう。
一番、気がかりだった学校生活も始まりがいいようで、心がほっと一息ついています。
ところで、あなたは、施設にいた頃、音楽室でピアノをよく弾いていましたね。杉谷家にもピアノ、
それもスタインウェイがあると聞いていますが、素晴らしい音があふれ出ることでしょう。由梨絵さ
んには才能がありますもの。ですから、あなたには音楽に進む道もあります。でも、将来については
ゆっくりと考えて下さい。
こちらでは、平和な毎日が続いています。
そうそう、この間、優香理さんと佑之輔さんがこちらに来られました。先日は雪が降って、空は白
かったのですけれども、午後にはそれが碧に変わると施設の建物の影が濃くなって、その先の森へ続
く道も陽の光に輝き、そして森もくっきりと見えた後に夕暮れが空を紅に染めはじめたころ、ふたり
の乗った車が着きました。
次の日、優香理さんと澄子さんが、メンデルスゾーンの「ヴェニスのゴンドラの歌」の素晴らしい
連弾を聴かせてくれました。誰もが天分を感じざるを得ないものでしたけれども、由梨絵さんも澄子
さんとよく連弾をしてましたね。私はふたりの音の重なりを今、心の中で聴いています。でも、やは
り、ここでその素敵な演奏風景を再び観たいとの思いが高まるばかりです。
佑之輔さんは、六月の初めに大学に帰りました。でも、優香理さんは施設にあとしばらく残るよう
です。もともと、物静かな方でしたけれども、以前とくらべて考えこむことが多くなったような気が
します。何か、決めかねていることがあるのかもしれません。
初香さん、紫衣さん、琴葉さんからもお手紙が届きました。みな幸せに暮らしているようです。
由梨絵さん、暫くして落ち着いたら、慈子様と詩織さんとあなたの三人でここを訪ねて下さいね。
では、あなたのこれからの幸福を祈って筆を置かせていただきます。
幸恵
「初香、琴葉からの手紙」
愛する由梨絵さんへ
水坂由梨絵さん、今は杉谷由梨絵さんになりましたね。幸恵さんから届いたお手紙で、あなたが幸
せであることを知りました。わたしたちも優しい養親になった蒼太郎様のもとで楽しい日々を過ごし
ています。わたしたちの住んでいるところは都会の郊外ですけれど、そのお家は山荘に似た造りで大
きな書斎があります。志岐蒼太郎様は、大学の教授をされているからでしょう、とても難しそうな本
が書棚に並んでいます。でも、子どもにも読める本をあらかじめご用意して下さっていました。その
中でも、ディケンズの『骨董屋』に、わたしたちは泣いてしまいました。
蒼太郎様は、とても教育熱心で、わたしたちを教師にならせたいみたいです。わたしたちが教師っ
て、自分たちのことながら思わず笑ってしまいそうなのですけれど、お父様の期待にそえるように、
初香、琴葉ともに勉強に励んでゆくつもりです。
実は、わたしたちの部屋にもピアノがあって、ふたりで毎日、楽しく弾いています。わたしたちの
お気に入りは、やはり『アヴェ・マリア』なのですけれど、最近、『アランフェス協奏曲』がとても
好きになりました。もともとはギターの曲なのですけれど、それをピアノに編曲した楽譜を蒼太郎様
のお友達から頂いて音を奏でてみると、なんて素敵な響きで、毎日、ふたりで練習して眼を閉じてい
ても連弾ができるようになりました。もちろん、由梨絵さんのように鍵盤に指が触れただけで周りが
瞬く間に光あふれるところに変わってしまうようにはいきませんけれど。
佑之輔さんも、大学が休みの日にお父様を訪ねてきます。わたしたちの前の佑之輔さんは、明るい
冗談を言って笑わせてくれます。そのおかしいことって。でも、蒼太郎様と佑之輔さんがお話しして
いる時、ふたりとも深刻な顔をしていることがあって、少し気がかりです。でも、あまり心配する必
要はないのかもしれませんね。大人の世界は複雑ですもの。わたしたちには、わからないこと。
そうそう、紫衣さんも幸せに暮らしているそうで、安心しました。
近いうちに四人で会いましょう。
では、由梨絵さんの幸せを祈っています。
初香、琴葉
「優香里と佑之輔」
「お茶以外のものをお飲みになりたくない」。優香里はだしぬけにそう訊ねた。「すばらしいジン
があるのよ」「え、ジンですか」「そうよ、まだほとんど飲んでないの、廊下の奥に見える小さな戸
棚の中にあるのよ、佑之輔さん、あなた、取って来て下さらない」。彼は、廊下に出ると、その薄暗
さの中で戸棚の戸を探り当てようとした。ようやく戸棚を見つけ出し戸を開けると、その中にはジン
の小瓶とクリスタルのグラスが並べてあった。彼は小瓶とグラスを持って帰ると彼女の前の椅子に腰
を下ろして彼女を見つめた。
彼女は、テーブルの上に置かれた彼が持ってきた施設にて描いた絵を眺めていた。その画集には彼
女が湖の周りを歩く姿や、森の風景、夕刻の光の中に建つ施設が印象派の筆で表されていた。その絵
では光が大切なのであり、彼は瞬間の時をその絵の中に封じ込めようとしたのだった。彼女は休みな
く話しながら画集を勝手にめくり、その後、彼女は絵をさかさまに眺めはじめた。「さかさまに見る
のは見にくくないですか」彼は言った。「いいえ、いい絵はどんな方向から見てもその値打ちを保っ
ているものですわ、ほら、さかさまでもこの絵は強弱の調和がとれていますわ、この方がそれがよく
感じ取れるくらいよ」。
彼女は、彼が施設を訪れてから一年半後にそこを辞め、故郷の町に帰った。彼は、彼女に最初から
魅かれるものを感じ、施設にいた二週間くらいの間、彼女とよく散歩をした。彼女が故郷の街に帰っ
たことを、彼は姉と彼女からの手紙で知ったが、その半年後、彼はようやく彼女のもとを訪れたので
あった。
「優香里さん、僕は一日中、ずっとあなたと話をしていられそうな気がしますよ」「まあ、あなた
は私にもあなたにお話ししたいことがたくさんあるとはお考えにならないの」。彼女は少し非難を込
めた眼で彼に言った。
彼女はこの街で子どもたちにピアノを教えて生計を立てていた。子供たちにピアノを教える楽しさ
、ピアノを静かに弾くことの喜びを、彼女は彼に語りかけた。彼もピアノを弾くので、彼女の感慨は
理解できた。その後、彼女は彼に尋ねた。「由梨絵さんたちは幸せに暮らしてらして」。彼は少しの
沈黙の後、「そうですね、おそらく」と答えた。
彼は、ふと窓を見た。雪が降っていた。その後、彼は彼女を見つめ、初めて会った日よりも彼女が
美しいことに気が付いた。肌の白さ、漆黒の髪、眼の輝きなど、そして彼女の美しさは彼を少し慌て
させた。
彼女は、彼の動揺を感じると、美しい笑みを浮かべて、彼の驚きを鎮めるための話題を探すかのよ
うに彼に言った。「お姉さんは、まだ施設におられるのね、お元気かしら」「ええ、そのことなら大
丈夫ですよ」。暫くはお互いに共通の話題を探しあった。ひとつの話題を話し終えると、また彼女は
想像力と知識の豊かさを表すように新しい話題をすぐに見つけてきた。この町が必ずしも豊かではな
いこと、そしてここに住む少女たちは幸せとは言えないこと、但し、彼女にピアノを教わりに来る子
はそうではないなど、また、自殺した女の子がいたことを彼女は話した。窓から見える幻想的な風景
が彼女の言葉に非現実的な印象を感じさせていた。
話題がふと途切れると、彼は緊張し蒼白な顔をして話し始めた。「実は、「優香里さん、僕はとて
も大事なことを話したくてあなたのもとを訪れたのです」。「知っています」と、もう少しで優香里
は答えるところだった。「あなたは、僕と」「わかりました、佑之輔さん、そのことについては後で
お返事をさせていただけないかしら」「あなたは、まだ、わかっていないのでは」「いいえ、わかっ
ているんです」「僕は、あなたに妻になっていただきたいのです」。優香里はすでに彼の気持ちをそ
こまで汲むようになっていたから、彼がそれを言ったときには驚いたようすになった。彼がそれを期
待しているのなら、そうしなければならなかった。ある大きな喜びが彼女をつつんで、それは天気の
いい日の何ものをも照らし出さずにはおかないような幸福に似ていた。「怒ってはいませんか」「ど
うして怒ることがありましょう」。
その夜、優香里は佑之輔との結婚について、まだ決めないでいようと思った。余りにも突然のこと
で、予感はしていたが、それは実際とはやはり別物であった。自分と彼の性格を吟味し、誰かと相談
しなければならなかった。彼女は感性そのものだけれども、彼は詩人の性格は持っているものの、現
実的な抑制が効きすぎているように感じられた。そして、佑之輔は優香里に結婚を申し込みはしたけ
れども、彼女を愛しているとは言ったことがなかった。彼女が問い詰めれば、彼は優香里を愛してい
ると言ったかもしれなかったが、彼の防波堤を崩したくはなかった。
翌日、優香里は早朝から夕刻までピアノを弾いた。彼女は本能と世界の完全なる調和を見出したと
感じたが、まだ、それを言葉で言い表すことはできなかった。しかし、それが素晴らしい時であるこ
とは確かであった。
不思議なことに僕は、その少女にいつ出会ったのか正確には思い出せない。学校で開かれた音楽会
の後でだったのか、それとも、僕がしょうこう熱で学校を休んでからのち、学校に一カ月ぶりに向か
う秋の通学路で会ったのか。その少女の笑い声、優しい顔立ち、野性的なきらりと光る眼、鼻孔の優
雅な曲線、僕は十五歳のころに戻って、その仄かな記憶を何故か思い出した。もちろん、少女は優香
里ではない。
佑之輔は若かった。それまでの人生で悲哀など一度も感じたことはなかったが、明るい朝に屈託の
ない気分になれない理由などどこにもないのだと、あれこれと大層な理屈を並べなければならなかっ
た。彼女に結婚を申し込んだことは正しかったのだろうか。彼は眠気に誘われた。そして、また、何
故か十五歳の頃に戻っていき、あの少女の顔を思い出した。