それはどこで笑うのか
Monk
詩を読んだり批評書いたりするときの話。
その作品に対して「それはどこで笑うのか」って思う。それはどこで泣くの
か、それはどこでグッと来るのか、それはどこで頬を染めるのか、どう言い換
えてもよいです。どこが売りなのかを感じる探す考える。それが伝わってくる
作品は好きだな。上手下手はあっても読んで残るものがある。ああこれはこう
いう作品だったな、と残る。やっかいなのは伝わらないやつで、僕が読み切れ
てないものが一つ。謙虚に言うと、すいません私の読解力が足らないようで、
だがもっとわかりやすく書いてくれとも思う。わかりにくく書くのが詩なのか
よ面倒くせーなもう、と思うこともある。まいいや、それは置いておいて。
もう一つ。作者もわかってないやつ、わかってなさそうなやつ。たとえば単
純に「この作品で読んでほしいポイントってどこですか?」と質問して「どこ
でしょうね?」と回答が返ってきそうな作品は困る。あんま好きじゃない。上
手でも好きじゃない。この「どこでしょうね?」もくせものだ。
「どこでしょうね?わかりますか?」と答えを読者にゆだねるもの。作者は
作者で考えているポイントがあるがそれを敢えて言いたくない、というもの。
これはいいですよ、意地悪だがそういう関係も。逆に燃える関係でもある。た
だ燃えるかどうか、1つここに障害があるわけだが。
単に謙遜で言ってる人は、もっとびしっと言ったほうがいいのになぁ。自信
はあったほうがいいし、それを示した方がいいと思うが。自分の力不足と比較
して謙遜するのかもしれないが、読んでる側からするととりあえず作品が全て
なので作者の力不足はあんまり興味ない。逆に謙遜は余計なオプションなんだ
が、作品でコミュニケーションをはかる場合は必要かも。時と場合ってことか。
で、一番困ってしまうのは作者本人もわかってないやつ。何かよくわからな
い感情をよくわからないままに書きました、みなさんどう思いますか?という
作品。これは作者のほうが損してると思う。だって作者にわからんような内容
を読んで「僕はこう考えました、なぜなら○○で、こういうことじゃないです
かね?」とは普通ならない。門前で払うよ。じゃ、いいか読まなくてと。確か
に文章がうまかったりセンスのある表現があれば読んでみようという気になっ
て発展するけれど、この敷居は高いよ。よっぽど上手くないと。だから作者が
損してると思う。
詩の投稿掲示板とかそのへんはたいてい自分も書いてる人が読んでるし、
「読もう」と思ってる人もいるので門前で払われる可能性は多少低くなるけど、
そうでない人は読まないですよ。つまらなさそうな映画館には入らないですよ。
お金と時間がもったないなくて。100個読んでそのうち1つか2つおもしろい
ものがあれば幸せだ、という人はめったにいないです。みんな百発百中を基本
的に求めている。
もちろん作品の前書きに「私もよくわかってないんですけどね」なんてわざ
わざ書いてあるものはないのだけど、読んでるとわかる。わかる気がする。こ
れ、作者もわかってないなぁと。そう思わせたら負けなのでいろいろ苦労して
書くのであって、そういう意気込みのある作品は読んでてわかる。意気込みが
あってもわからん場合もあるが、それは半分は読んでる僕が申し訳ない、半分
は書いてるあなたが力不足。でも意気込みだけでも僕は好きだ。実を結んでな
くてもいつか実を結ぶと思うもん。
そんなね、自分の奥底に隠された才能があって、あとは周りがそれを見つけ
て評価してくれるなんてことは滅多にない。そう見える人もちゃんと努力して
ると思う。売り込むために駆けずり回ったり。なんか詩の世界はこの「売り込
む」ってことが美徳としてよろしくないみたいな風潮も感じるところもある。
そんな天才ばっかりなのか詩人は、と。作者は「ここ、おもしろいでしょ?ほ
ら、ここ。嘘、おもしろくない?まじで?なんでよ、ちぇー。」くらいの意気
込みがあってもいいけどな。他人の意見をくみ取るならその先でくみ取ればい
い。「わかった。じゃ、こうやったらどう?」と。
ともかく僕は「それはどこで笑うのか」の質問に「これはここで笑うんだよ。
少なくとも俺は笑う」と返してほしいのであり、そういう作品の術中にはまり
たい。やべえ、今、術中にはまってるぅと思いたい。で、「くやしいけどおも
しろかった」と書きたい。そんな作品を読みたい。挑戦者求む、だ。そうだな、
挑戦者だな。だって読むときは「楽しませてくれよ」と思ってるもの、常に。
というかみんな思ってると思うよ。おもしろかったらいいなーくらいは思うだ
ろう。なので挑戦者だ。
さあ、君はそれのどこで笑えと言うのか。