したい訳
たちばなまこと

にゃーん、と発情期の猫のようになるときがある。
しかし性的つながりだけが好きなわけではない。

私は思春期の頃から惚れっぽい。
惚れられると惚れる。
本能だったり、思考する脳だったりが愛を渇望しているからかも知れない。
あたえられたいからあたえる、あたえて、その何倍もあたえられたい。いつも正直に欲ばりで、驚かれる程に、赤裸々な私を見せて、赤裸々をもらいたがる。
必要とされているという事実に私は酔ってしまうし、むしろ生き甲斐を感じる。
それはとても単純で、褒められれば図に乗るとか、おだてられれば意気込むとか、哀願されれば心底、心動くとか、そういうものだ。

愛を身体ごと感じたい。身体中で感じたい。
私は五感をすませて、五感の愛をひとつずつ確かめる。身体の動き、汗、無意識に漏らす声、全ては私に向けた愛だと感じる。だからいくらでも欲しくてその愛にまみれて愛以外欲しくなくなって、もっと得るために私の愛を注ぐ。言葉、不意に吐く母音、吐息、体温、握力、水分、全ては本能と脳で生まれた感情で包まれた愛のかたちで、例え赤裸々で醜くても、私が欲しいのはむしろやはり赤裸々だから、赤裸々を注いで赤裸々をもらう。
求め合うときの瞳に中に私の瞳、その中に求めている人がいる、そんなこと、さなかには冷静に考えていないが、例えば今のように思い起こすならそうで、嬉しい循環だ。

互いに高まりたいと思う。特に感情から高めてゆきたい。それは互いに、でなくてはいけない。
高まるように促す人の思いをひとつひとつ登ってゆきたい。ひとつひとつが私に向ける「好きだ。」に聞こえる。その姿がとても純粋で、頂点に向かうことだけを考えている身体がそこにある。受け止めたいんだ。受け止めてもらうために。
そんなときは「好き?」と聞けば無意識だってなんだって、きっと「好きだ。」と返してくれるだろう。その夢中な人は、私という人間のこと、身体と感覚のことしか考えていないはずだから、最高に愛おしいのだ。
私の反射ひとつひとつに感動を覚える身体、本能、脳が思うもの…もっと見たいし、注がれたい。
二人が重なるときには、実際は触れられない「芯」に触れたい…そんな心の芯と、身体の芯がシンクロするような気がする。

自分を抱いて眠る夜があるのは、自分を愛しているからだろうか。


散文(批評随筆小説等) したい訳 Copyright たちばなまこと 2005-03-30 22:57:53
notebook Home 戻る