キリストとフクロウ
ホロウ・シカエルボク
コンビニエンスストアの駐車場で鍵つきの車をかっぱらって、曇り空の下、国道を北方向へ二五時間休みなしに走り続けて辿り着いた先は、名もない樹海だった。バックシートを漁ってみると同乗者の荷物のなかに財布があったので、少し戻って営業している廃墟みたいなコンビニでパンとコーヒーを買い、駐車場で食べた。ディズニーの小人みたいなレジの婆さんと俺以外どこにも人間は見当たらなかった。人間よりも野生動物の方が多いに違いないだろう、そんなところだった。こんなところに住んでいる連中はいったいどんなことをして毎日を過ごしているんだろう?農家だろうか。一日中、米や野菜を育てて、それを食って生きているのだろうか。それは至極シンプルな、素晴らしいことのように思えると同時に、非常にハイクオリティな動物の暮らしだという気もした。でも本当はどちらかなんてどうだってよかった。腹が膨れるとすぐに車を走らせた。ゴミは助手席に置き去りにすることにした。樹海の近くには駐車場のようなものはなかったので、少し広くなっているところに適当に止めた。手ぶらで歩み入ると、このところ雨でぬかるんだ土が驚くほどに沈んだ。スニーカーで歩くのは苦労しそうだ。そう思ったが引き返す気にはならなかった。空は今日も曇っていた。いまにも雨になりそうな色だった。けれどこの森の中なら、さほど濡れることもないような気がした。管理されていない森なのだろう、木々のそれぞれが生存を争い、出遅れた木は腐って隙間に折り重なっていた。五分に一度はそいつらを乗り越えて進まなければならなかった。あっという間に身体は土にまみれた。それでも俺は休まずに進んだ。ここに辿り着いたのなら、ここなのだ。樹海の底は戦争の後のような隆起に満ちていた。つまずき、転び、喘ぎながら懸命に歩いた。そんなふうに森の中を歩くのは初めてだった。幼いころに遠足で歩いた遊歩道のことを思い出した。あれは森ではなかったんだな、そう思うと笑えて来た。今頃になって、俺はあれがインチキであることを知ったのだ。それは少なくとも、そのときの俺にとってはとてもよく出来た笑い話だった。一時間ほど歩くと隆起が少なくなった。それはまるできちんと聖地された植林のようだった。平坦な地面の上に、等間隔にすらっとした脚のような真っ直ぐな木々がまるで指示を待つ軍隊のように整列していた。(おそらく俺は来てはならないところへ来てしまったのだ)そんな気がした。誰かの森だとか、土地だとか、そういうことではない。そこは人間が訪れてはならない場所だった、そんな気がした。しばらくの間そこに佇んでいた。それ以上の進行を許されようが許されまいが、先へ進むつもりだった。けれどひとたび油断すると、その場所に飲み込まれてしまいそうな気がして、なかなか踏み出せなかった。雨が降っているようだった。頭上で雨粒が木々の葉を鳴らす音が聞こえていた。地面まで落ちてこないところを見ると、たいした降りではないのだろう。雷が一度鳴った。それが合図だった。俺は聖域に踏み込んで先を急いだ。身体が冷えて寒くなってきたことも理由のひとつだった。聖域を抜けるとそれまでのような荒れ果てた森に戻った。そしていままでよりもきつい傾斜があった。とにかくこの坂を上り切ることだろう、そう思った。不思議と疲れは感じなかった。目的に向かって進んでいるという気持ちが、身体を前へ前へと動かしていた。うっすらと霧がかかっていた。雨はもう止んだのだろうか。俺はここを歩きながら、ここではないどこかにいるような気がしていた。確かに息を切らしながらそこを歩いているのに、本当はもうまるで違うところに居るのではないか、そんな気がしていた。街から、他人から、慣れた場所から離れ過ぎたせいなのだろうと思った。スマートフォンを取り出して時間を確認した。もうすぐ昼になるところだった。そして電波はもう拾えていなかった。プレイヤーを起動して、純粋だったころのU2のアルバムをフルボリュームで流しながら歩いた。聖域を孕んだ得体の知れない樹海で聴くのに適した音楽なんてそれしか思いつかなかった。アルバムが二周したところで、ようやく道の終わりがあった。
そこは開けていて、根っこからすべて刈り取られたみたいにあらゆる草が存在しなかった。下に岩があるのか、土の感触は浅かった。その真ん中に、俺の背丈と同じくらいの木の枝が落ちていた。それは少し身をよじった十字架のような形だった。十字架か、と俺は思った。十字架にはキリストが必要だろう…。俺は森の方に少し戻り、折れた枝をいくつか、それと割れた石を持って広場(そう呼ぶことにした)に戻った。石で拾ってきた枝の先を削り、十字架の脇と背に突き刺して立たせるようにした。それだけで夜になった。俺は眠ることにした。真夏の夜のせいか、あまり寒さは感じなかった。これまでないくらいぐっすりと眠ることが出来た。自分の魂が身体から抜け出して、どこか遠い空を彷徨っているみたいなそんな眠りだった。夜明け前の寒さと、控え目な白さのせいでゆっくりと目が覚めた。習慣的に顔を洗おうと思ったが水溜りすら近くには見当たらなかった。なのですぐに割れた石を手に取り、十字架にかけられたキリストの制作に取り掛かった。いままでに木工彫刻の経験があるのかって?まるでない。小学校の時に彫刻刀で鮫を彫ったことがあるくらいだ。あのころはジョーズが流行っていたからな。「ブルー・サンダー」のロイ・シャイダーが、鮫と戦っていたあの男だって知った時は、結構驚いたな、なんて、集中して何かをやっているとどうでもいいことを思い出す。そんなわけで俺はまともな彫刻なんぞやったことはなかったが、いまは子供じゃない。時間を掛けて、丁寧に進めれば、初めてのことだってそこそこ上手くやることが出来ると知っている。まあ、時間を掛けることを良しとしない連中の方が、世の中には大勢いるわけだが。分刻み、秒刻みに結果を追い求めていると、それだけの成果しか得られないものだ。世界が単細胞で溢れ始めたのは、そうしたタイムテーブルが当たり前になったせいだろう。ところで、キリストを彫ろうと思ったらどこから始める?俺は顔からにした。その方が早めに気持ちが入りそうな気がしたからだ。そういう作業というのは面白いもので、やればやるほど出来てないところが目につく。人間の目を納得がいく形に彫り上げることが、どれだけ困難なことか想像がつくだろうか?キリストの両目を彫り上げるころには夕暮れが近付いていた。疲労を感じたが、作業を続けたかった。夜が来ることがもどかしかった。また枝を集めて焚火でもしようかと思ったが、マッチもライターも持ち合わせてはいなかった。俺は煙草を吸わないのだ。諦めて眠ることにした。慣れれば陽のあるうちに上手く彫り進めることが出来るだろう。
鼻、口を彫り終わるのは簡単だった。もちろん、目に比べればという程度のことだが。それから髪の毛に取り掛かった。これが一番手間だろうという予想はついていた。ただ、石の扱いに慣れてきたせいか、思ったよりも時間はかからなかった。二日と少しで髪の毛と冠が出来上がった。少し離れてイエスのご尊顔を仰いでみた。悪くない出来だった。初めてにしちゃ上出来だ。神経症的な集中力が、コインゲーム以外で初めて役に立った。一息つくととんでもなく腹が減っていることに気づいた。森に入り、木の実らしきものや草、それから食べられそうな茸を適当に引き抜いて食べた。水はいまのところ、時々降ってくる雨で足りていた。それから一度眠った。それが実質俺の最後の食事であり、眠りだった。夜中にフクロウの声で跳ね起きた。美しい月が出ていた。これまで見たこともないようなでかい月だった。高価な絵本の中でしか見たことがないような月だ。クレーターまではっきりと確認することが出来た。俺は頭がおかしくなっているのだろうか、と思った。もう昼も夜も判らないようになって、幻覚を見ているのだろうかと。でもそんなことはどうでもよかった。目が効くのなら、やることはひとつだけだった。
それからいくつかの朝と夜が入れ替わり、激しい雨が降って強い陽射しが照りつけた。けれど不思議と夜には狂ったように明るい月が出て、おかげで俺は手を止めることなくキリストを彫り続けることが出来た。疲れは感じなかった。とにかくこれを完成させたかった。キリスト教徒でもなんでもなかった。むしろそんなものは馬鹿にしていた。でも、キリストの馬鹿正直さにはどこか憎めないものを持っていた。教会も好きだった。子供のころ、住んでいた家の近くに朽ち果てた教会の廃墟があり、よくそこに忍び込んでは高い天井を眺めていた。神なんてものは正直理解出来なかったけれど、高い、ステンドグラスをはめ込んだ窓から差し込む陽の光や、荘厳とした雰囲気は俺の心を捕らえて離さなかった。その教会は俺が小学校の高学年になる頃に取り壊された。思えばそこから俺はどこにも行けなくなったのだ。ああ、あそこか、と俺は思った。あの教会が俺をここまで連れてきたのだ。あそこに住んでいたなにかが、俺をここで十字架のように倒れた木の枝に引き合わせたのだ。それはもう思い出ではなく示唆に満ちたなにかだった。俺はもう瞬きすらしていなかった。懸命にキリストを彫り続けた。もう自分がなにをしているのかすらよく判らなくなったころ、それは出来上がった。
朝だった。月が出たまま雨が降り続けた、なにもかもが光を弾く早い朝だった。しゃがみこんだ俺の目の前には磔にされ、打ち付けられた手のひらと足の甲と。唇から血を流しながらうっすらと微笑んでいるキリストが立っていた。俺の手によって生まれた神を眺めながら、俺は馬鹿みたいににやにやしていた。「天にまします我らの神よ」俺はそう呟いた。でも続きを知らなかった。どこかで鈍重な羽ばたきの音が聞こえて、一羽のフクロウがやってきた。キリストの顔と同じくらいの大きさだった。そいつはキリストの肩に止まり、まずまずだというように首を左右に回した。「朝だぜ」俺はそいつに話しかけた。「なにやってんだよ」信じてもらえるかどうか判らないが、そいつは嘴を左右に広げてにんまりと笑った。それで俺は話すことを諦めた。
キリストとフクロウがそうして俺を見下ろしていた。俺は自分のしたことに満足していた。もっとなにか、自分に出来ることがあるような気がした。けれどもう指先すら動かすことは出来なかった。
【了】