小舟までの距離感
瓜田タカヤ
また奥さんに怒れてしまった。
なぜ結婚後の女はこうも強くなってしまうのか。
俺が起きてすぐに酒を飲み出すのが悪いのか。
子供の世話を何もしないことが悪いのか。
悪いです・・ね。
俺はまだ割礼を済ませていない子供のようで
その事を余り恥ずかしく思っていない。
それが
俺が青森の閉じた社会に、上手く適応できていない事に繋がっているのだろう。
大人としての責任。
親としての責任。
ああ なんと重く重い言葉なのだ。
俺はまだそんなことを果たせるまでの、金を持っていない。
金?だからダメなのか・・。
二つの思い出話がある。
俺が小学校の時、学校から帰ってくると
昔行ったことがある寿司屋のお兄ちゃんが母と二人でいた。
親父はいなかった。
寿司屋のお兄ちゃんは、俺の家のテーブルカウンターを使って
寿司ネタを並べてくれて、俺が「これ」と指さすと
それを握ってくれた。
小学校低学年の俺にとっては無邪気なお寿司屋さんごっこであった。
何日かして、参観日の帰り道、母と魚菜センター通りを出た頃、
母が質問した。
「パパとママが別れたらどう思う?」と
俺は小学生で、意味が分からなかったから、もしくは
意味を知りたくなかったのかもしれない。
「別にいいんじゃない」みたいなことを笑顔で言った記憶がある。
海沿いの公園がある。合浦公園という。
小、中学校時代よくこの公園で遊んだ。
遅い5月の春は花見があり、イチゴ飴をたべたり、病気持ちの鯉を釣ったり
怪しい見世物小屋で、蛇女を見たり、お化け屋敷で始めて女の子と
手をつないだりした。女の汗の匂いは、お化け屋敷内に染み込んだ
お化け達のドーランの匂いがした。
夏は海水浴をした。テトラポットの誰も泳がない側では
ウニやカラスガイがとれるので、みんなでそれを取って食べたりした。
俺は泳げないので、浮輪を使っていた。
みんな浮輪を奪い取ろうとしてくるので
俺は笑わせた、何か適当な事を喋って、笑わせて
俺の浮き輪を強奪する行為を止めようと試みていたのだ。
俺にとっては命がけの魔法を唱えていたつもりだった。
秋は展示されているSL機関車で待ち合わせをして、隠れんぼや
忍者ゴッコをする。エビショウと言う友達がいて、彼は忍者ゴッコの時、
草陰にずっと隠れていて、俺が横を通りがかった瞬間、
すごいジャンプ力で引っ込むナイフ片手に襲いかかってきたりした。
その時の彼の体勢が十字架のようで、
そのまま関節を曲げずに無表情で、
俺の目の前に飛び込んできたのを覚えている。
冬は雪祭りで、建設中の雪の迷路に真夜中忍び込み、
鬼ごっこをしたりした。
それは秋のことだった。6年2組の悪ガキ達で海で遊んでいた。
みんなで、向かいは海に面している石で出来た床を伝い歩いていたら
海側の方に、よくカップルが乗りそうな小さなボートが停泊していた。
みんなでその船に乗り込むことになった。
岸と船の距離は50センチくらいしかなかったので、余裕で飛び移ることができた。
初めに祐ちゃんという小太りの、弱い人間を虐めていた人が飛び乗った。
その次に楠が飛び移った。ガキ大将のNは、
その様子を見ていたが、それがいけなかったのかもしれない。
岸と船の間が80センチくらい開いてしまった。
N君はジャンプして飛び移れば良かったのに、様子を見るためだったのか
まず船の縁へ右足をかけた。
そして左足で一気に地面を蹴り揚げて船側に持っていこうとしたんだが、
なぜかN君の左足は動かない。
良く見ると、
初めに脚をかけた瞬間少しずつ船と陸地との間は距離を持ち始めていたのだ。
そしてN君の足コンパスが徐々に開いていった、楠が「ジャンプ!」と言ったのだが、
コンパスはほぼ180度にまで達していたので、
既に踏ん張ることが出来なかったのだろう。
N君は岸と船との間の海に、子分達が見ている前で落ちてしまった。
海は思いの外深く、頭まで浸かった後に全身が現れた。
みんな一生懸命N君を助けようと引っ張り揚げた。
俺は泳げなかったので、ちょっと離れたところから見ていた。
中学校に入ってからもこの公園はよく使われていた思い出公園だ。
ツッパリ同士の喧嘩の場所(後輩にやらせる)であったり、
俺の今の奥さんが酔っぱらいに犯されそうになったり、
ゴム靴で走っていて、地面に打ちつけられていた釘を
踏んでしまったり、真冬の真夜中にバンドのイベントで、
宇宙人を呼ぶと言う企画があってそれでオチが俺が、
スライム(バンド時の白塗りメイクで裸)の恰好して
「ワタシハウチュウジンデス!」と海から震えながら出てきて、
その後メイクとか落としている時にファンの小太りの女の子に、
好きですと告白されて、
ヨーロッパ人が決闘で使うような手のひらにピッタリの皮の手袋をもらったりした。
中でも良く思い出すのは、中学校の時のことだ。
俺のオヤジが 俺が小学校の時、母と離婚し、中学校に俺が入るまで
母は心臓の病気で仙台の病院に入院していると言っていた。
ある日俺が中学校に入学して何日かたったとき、俺と妹を居間に呼び
「本当はお母さんとパパは離婚したんだ」と言ったことがあった。
俺と妹は本当は薄々感づいてはいたのだが、オヤジが入院したと言っていたので
それを信じることにしていた。のだがその時始めて、親父の口から離婚という
言葉を聞いて、結構へこんだ事があった。
それは俺にとって始めての「愛の否定」を感じたイベントだった。
愛の真実感は現実という生命のイベントの中では必ずしも
正しいフィルターを通して、成り立たないことを体感した瞬間であった。
その告白があった週の日曜、親父は俺を合浦公園に誘った。
そんなことは今まで一度もなかったので、俺は緊張した。
話すこともなく海を二人で歩いていると親父は「松ぼっくり」と突然言った。
「え?」と俺が聞き返すと「松ぼっくりを拾え」と命令口調で喋りだした。
俺と親父は、何を話すでもなく松ぼっくりを拾いまくる。
そして親父は松ぼっくりを使った遊びを俺に教えてくれた。
砂に落ちた相手の松ぼっくりに自分の松ぼっくりを投げぶつける、と言う遊びで
それは次の週もそうして遊んだし、その次の週もそうして遊んだ。
その後は、だいたい東バイパスの方にある、「小吟亭」というソバ屋へ
飯を食いに行くのだが、食べるのはいつも釜揚げうどんだった。
その店の釜揚げうどんが美味しくて、いつも頼んでいた。
ある日、オヤジが店員のおばさんに「いつも来て釜揚げうどん食べてるから
もう、覚えでまったべ?(客の俺達をおぼえているでしょ?)」と聞いたんだけど
おばちゃんは「忙しいから、わがんねえ」と言った。
去年奥さんとそのソバ屋へ、釜揚げうどんを食べに行ったのだが
俺がもうタバコを覚えてしまったせいなのか、また別の意味で
大人になってしまったからなのかで、余り美味しく無かった。
その店の接客も余り良くなかった。
親父のことは嫌いだ。キチガイじみているからだ。
ただ俺がもし、自分の奥さんが寿司屋の職人と仙台へ逃げてしまって
その子供が二人残っていたら、親父のように責任をとろうとはしないだろう。
子供を奥さんのもとへ送り、
俺は酒におぼれる毎日を過ごすのだろう。
詩を書けない詩人でいられる言い訳を
一生かけて探すのかもしれない。
俺は本当は、誰とも暮らしていくことが出来ないのかもしれない。。
愛があるからという、未確認の真実に触りたがる距離感は
渡れそうで渡れないかもしれない、
小舟までへの距離感なのだ。