トイレの落書きとか共感の否定に関する話
腰国改修

卑近承知。そう書かなければ身は持たず誠に狡賢い。しかし、書けばなお狡賢いが、口上は早めに切り上げるのが得策。

昔、大人達からよく言われた『そんなもの、便所の落書きやないか』と。今よりまだ世の中雑でこころない大人など山盛りだった。教師は今より腕撫し、バリアフリーなどなく、病者は隔離され、性的な虐待や嗜好は地に潜り、色々なことがはばかられた。

太陽とはなんだ!
海は静かに?

これは昭和58年頃に大阪南部の公衆トイレで見た落書き。

『太陽とはなんだ』という文字を読めば、それは疑問形だから、文末には『!』ではなくて『?』が付されるのではないかと稚ない私は杓子定規に考えた。若くても子供であったけれど、お陰様で(?)頭は固かった。近所でケンカしても頭突き一発逆転勝利。と、それはさておき。

『海は静かに?』についても『海は静かに!』ではないのかと思った。

そんなことを考えながら、家に帰ってその落書きの続きを考えた。当時も今も変わらず暇だった。

太陽とはなんだ?
海は静かに!
私は波を蹴散らして
青足を運びながら
自分勝手な
一つの季節を造る
だから問うな!
何故に命令するのか?

我ながらよく出来たと思い大人達に見せると『さっぱり分からん。そんなことより宿題せんか』と。私は、心中、何故に命令するのか?と舌を出した。

少ししてから、また或る公衆トイレで、女体の間違いなく裸婦像を見た。まだ、初で晩稲だった私はお陰様で上気した。覚めやらぬ興奮を抱えて家に帰り、その見たままの裸婦を新聞チラシに書こうとしたが、なぜか手は動かず、羞恥と罪悪感でもない妙な感情に支配されて出鱈目に着衣の女性を描いた。とりあえず、大人達に見せようと歩き出したら足の小指を箪笥にぶつけた。涙が出たが出任せに、大人達を見つけて着衣の女性を見せた。そこで、件の一言。

『なんや。それ。便所の落書きかいな』と笑われた。私の涙をどう誤解したのか、大人達は後から私に対して無駄に親切なふうだった。

このとき初めて、案外大人は愚かなんだと思い愉快だったから、その機に乗じて随分と甘えてやった。

そして、現在。

便所の落書き。
めちゃくちゃ上手いとしよう。サキュバスの如き裸婦像。雪隠の落首。定家の如き、或いはマラルメのように見事であるとして。

そこに絵心は?
詩情は?と、問いたくなる。無論、答えはあるのだろう。

本能ベース。いや人間らしさが、そうだとして、排泄をする本能空間で絵心や詩心を培ったとしたら。書いたものが感情の爆発であったり、生殖本能に引っ掛かるものであったなら、やはり、詩や絵画、芸術は『本能』と大層深い関わりを持つのだなと思う。で、あるなら、歪んでいると言う人もいるかもしれないが、争いや暴力なども芸術に成りうるのではないかと。何も共感されるものが全てではなく、時には共感を否定して詩を書いてみる自由はあるのではないだろうか。

一寸の虫に五分ならば、便所の落書きにはいかほどの魂があるのか?暇な時間にまた考えてみようか。嗚呼、今もそう言えば暇だった。

加えて、暴力は自由だ。自由は暴力だ。暴力こそ自由だ。自由こそ暴力だ。さあ、服を脱げ、さあ、排泄を、接吻を。俺を加えろ。俺のを加えろ。俺も加えて運んでくれ。

あ、言われなくてもやってる?
あ、そう。

あんた自由だわ。


散文(批評随筆小説等) トイレの落書きとか共感の否定に関する話 Copyright 腰国改修 2018-03-12 17:30:09
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