ワタナベさん「さそりの心臓」に見る「詩とその呼吸」に関する感想文
ベンジャミン


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ワタナベさんの作品は、描かれている世界がきれいだったり、描いているものとの距離のとり方が好きだったりするんですけど、この作品についてもそれは顕著に現れています。
でも今回は、あえてその見方とは異なる視点から、この「さそりの心臓」という作品を見てゆきたいと思っています。
それは「詩とその呼吸」についてです。

おそらく誰もが、読んで心地良いと感じる言葉の流れを持っていると思うのですが、この作品に関しては、それが目で見てもわかるくらいに感じられると思うんですね。それは一文の長さに大きく現れています(一文の中にも感じられますが、それはさておき)。

冒頭の比較的長い一行目の切り出しから、2・3行目に移るごとに一文が短くなっています。それは、長い一文を読んだあとの呼吸を自然に整えてくれる、そして4・5行目ですが、ここはまとめて一文にしてもいいのに改行が施されているわけです。そこで改行されているからこそ、6行目以降にすんなり読み入ることができるんですよね。
こういった読むときの呼吸、その抑揚の在るリズムが、書かれている内容にある種の優しさのようなものを付加しているように感じられます。もちろんそれは優しさだけはでなく、書き手がどこに心情を強く注いでいるかということを、何となしに伝えてくれているようにも思えるのです。たとえば一連目の最後

   静謐とした調和にしたがい
   かたちづくられてゆくその
   さそりの心臓は
   しずかに燃焼しつづける

(ちっ、漢字が読めなくて辞書をひいたぜ、、なんていう愚痴は関係ありません)
「静謐とした調和にしたがいかたちづくられてゆくそのさそりの心臓はしずかに燃焼しつづける」という文を、どのように改行するかで、受ける印象は大きく変わったりするわけです。特に「その」という指示語を、独立もさせず一文の中にまぎれさせることによって、逆に指示している「さそりの心臓」という言葉を浮かび上がらせているように見受けられます。このとき、「かたちづくられてゆくその」という一文はけして長い文ではないのに、通常の改行による間のとり方よりも大きく呼吸をさせられます。

この作品には、そういった文勢による呼吸のポイントが随所にもうけられていて、それが読者にとって心地よかったり、ふと驚かされたりしながら、飽きることなく読み通せてしまえる流れを生んでいるように思えます。
もちろん、それに見合うだけの世界を、繊細な言葉選びによって実現させているともいえるのですが、僕は何よりこの作品の中に出てくる「流星雨」という言葉が好きでたまりません。それは僕の詩情であり、私情でもあるのですけどね。



   


散文(批評随筆小説等) ワタナベさん「さそりの心臓」に見る「詩とその呼吸」に関する感想文 Copyright ベンジャミン 2005-03-18 18:22:43
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