おぼれる
葉leaf



シンフォニック・メタルを車内に流しながら早朝の峠道を走る。車体がカーブを曲がるごとに風景はうねり、木々も道路も正しさを見分けることができなくなっている。現実という熱い海に溺れながら社会的反射神経ばかり鍛えられ、今や私はコインを入れれば缶コーヒーを出すだけの自動販売機と何も変わらない。かつて詩や批評が湯水のようにひらめいていた日々は遠く、私は死者のように暗いまなざししか持たない。事業、結果、業績、評価、そんなものにいったい何の価値があるんだ、という反骨精神も失い、誰よりも会社のために貢献し承認されようとしている。実家へ向かう長い道を運転しながら、ただ一言、運転とは惰性である、と。続けて人生とは惰性、と言いかけてすぐさまそれを遮る。人生を惰性で過ごさないための詩であり批評であった。シンフォニック・メタルがいよいよがなり立てる。現実の生活に精神と肉体を浸食されながら、それでも現実の生活を詩と批評で言い表すこと。むしろ現実の生活こそが詩と批評の大いなる源泉であるということ。労働で摩耗した精神が逆に労働を支配し所有すること。そのような危うい均衡の上で、私はいよいよアクセルを踏む。おぼれてもいい。おぼれたことをきちんと所有すること。襲い来る人生への復讐は人生への所有権の申し立て以外ではありえない。


自由詩 おぼれる Copyright 葉leaf 2017-09-15 05:08:17
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