詩人の誕生
岡部淳太郎

その人は起き上がる
いまだ眠たげな目をこすりながら
一杯の朝のコーヒーを探し求める
たった一杯で
本当に目が醒めるのなら
世界は半日ごとに覚醒と睡眠を繰り返す
整理された場所になるだろう
だが 世界は目醒めない
その人は 目醒め始めている

夜の間に窓枠に降りた露
冷え切ったその体温
あるいは歌い出す鳥たち
冴え渡るその音符
その人の周囲であらゆるものごとが
輪郭をあらわにして自らを語り出し
その人はひとり
絶対のひとりで
喧騒の巷に 立ち止まる

歌が降ってくる
思い出のように
歌が降ってくる

あるいは物語のように
あるいは預言のように

降ってくる雨粒を受け止める小さな掌を持つ
その人はゆっくりと
水の流れるほうへと歩き出す
すべての中に歌が潜んでいて
その滑りやすい魚のような新鮮なものを
手づかみで引き上げたいという欲望に
その人は駆られる
あまりにも清純な欲望
世界は黙って
その人を待ち受けている

日輪が輝き
その下で季節は巡り
運命の輪が開かれ また閉じられる
目醒めることは
想像する以上につらいことなのだが
その人は急いで想像を駅の鉄路に投げこむ
歌うことによる
幸福の予兆
だが歌うことは不幸である
歌わないことを選ぶよりは

その人は喉の中に涙を溜める
声のないドキュメント
次から次へと変りゆく時を見つめながら
その人は喉の中に川の流れをつくる
あまりにも清浄な川
汚されることのない
やがて世界の海へとそそぐ明日を夢想する
細い川

歌が降ってくる
思い出のように
歌が降ってくる

あるいは祝福のように
あるいは怨嗟のように

呪われた詩人よ
おまえは誕生する
ただ歌え
熱い いまだ夢の中のような
苦しい目醒めの中で



(二〇〇五年三月)


自由詩 詩人の誕生 Copyright 岡部淳太郎 2005-03-10 19:39:48
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