あるいは鉄や果物かもしれないもののこと
はるな
むすめのひざや足の裏はしっかり厚くなった。ひとり掛けのソファにすわってテレビをみているところなど、すっかり人間ふうだ。わたしは鏡をみるのがきらいになって(太ったまましばらく戻らないから)、自分の顔がどんなふうだかよくわからなくなってしまった。
ひなげしも薔薇も咲いた。マンションの壁の格子に茉莉花がからみついて咲いている。前年の枯れた蔓をそのままに、その上にかさなるようにしてにぶい緑色を這わせながら。そろそろまた季節が変わる。
正しさを求めながら歩くのは苦しいが、苦しみながら歩くのは正しいのか。無価値の美しさを尊びながら、なにかを求めるのは正しくないのじゃないか。
むすめが歩くとき、それが苦痛でないことを願っている。歩いてくるのは簡単ではなかったし、たびたび苦しかった。それがむすめと歩いているとわたしはくるしくないのだ。でもそれではいけないと思う。一人で歩けなければいけないと思う。むすめに寄りかかるようにして歩いているのは正しくないと思う。そんなふうに考えてしまう自分のことを、すごくいやなものに思う。
あらゆるものの意味から自由になって、もういちど形をつくらなくてはならない。
これまでの物事を粘土のようにして、そこへもういちど水や土を足して(あるいは鉄や果物かもしれないし)(プラスチックはそぐわない気がするんだけど)、何度もはじめなくてはならない。
たとえば詩の肉を削ぎ、骨をはずして花をあてがう。足りない。時計から数字を取りさり、針を追って羽をかざる。かざるのでは足りない。板をどけ、ぜんまいを巻き、夢を噛ませる。足りない、あるいは多すぎる。何度もあたらしくはじめる必要がある。そしてはじめたら、辛抱強くつくり続ける必要がある。ときには潔く終わらせなければならない。そのすべては同時に、あちこちで進められる。つまりそれが季節の変わり目ということだ。茉莉花の、老いて重なる茶と緑を埋める時間だ。
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