参道
はるな
声をかけるとむすめが転がってくる。はしるみたいにして。
この神社の参道は長い、すべての鳥居をくぐろうとすると四十分はかかる。むすめの足だと九十分はかかるかもしれない(そのまえに疲れて動かなくなってしまうかも)。
「一の鳥居からはいって、結局大鳥居まではいけなかったんだよ。おばあちゃんが手術をしたばかりで、無理がきかなかったから。でもあんたたちは自分のあしであるいたよ。この子に比べたらずっとたくさんあるいたよねえ。」
おばあちゃん、というのは母の母(つまりわたしの祖母)のことで、あんたたちというのはわたしたち姉妹のこと、この子っていうのはむすめ(つまりわたしの母からみた孫)のことだ。わたしがむすめの年頃のころに、祖母とこの神社へお参りに来たのだと、引越し先をみに来た母が言っていた。母が言う通り、むすめはまったく歩かずにベビーカーで寝ていた(もう対象年齢を過ぎているかもしれない、すこしぎしぎし言い始めたベビーカー!)。わたしたちは昔とは反対に、公園から続く裏口のようなところから先にお参りを済ませて、駅の方向へ伸びる参道を歩いた。さくさくと小気味よく鳴る砂利の音、すうすうと文字が浮かんできそうに眠るむすめ。
なくした頁がふっとでてくるみたいにして、記憶は現れる。遠いのも、近いのも。
小学校からかえってきて、つかれては眠ってしまっていた。よく眠る、すぐ眠る子どもだった。どこでも眠った、歩いているときも、授業中も、ピアノのレッスンの最中にさえ。塾もピアノもない夕方に眠って、起こされると夕飯ができている。あるいはもうすでに家族は食べ終えて、自分の分だけが残されている。あの奇妙な喪失感。自分だけ違うところから連れてこられたような、自分だけが色あせたピースになったような浮遊感。
ほら、ままおこしておいで。
うんはーちゃんがおこしてくるよ。まま、おこしてあげようか。
むすめがそう言いながら腕をひく。まま、おこしてあげようか、あれ、うごかない。あれ、あれ、おかしいな。
だんだん泣き声まじりになる言葉と、表情がぴったりくっついている。
ぴったりくっついている、というのは貴重なことだ。貴重で美しい。
以前、幸福は存在する、と思った。それはときどき思った。幸福は種みたいなもので、水とか土が必要なのだ。そして時間も。いまは、実在する、と思う。実在して、わたしの腕を、起きて起きて、と引っ張るのだ。