混沌を解いたところで簡単な現象にはならない
ホロウ・シカエルボク



壁掛け時計の針が示す時間を鵜呑みにする前にこめかみに鉛筆を突き立てた、そう、それはまさにくたばる一歩手前のギリギリのところだったよ、ついでに言っておくけどそれは二三時を少し過ぎたところだった、リアルかおふざけか、窓の外の表通りじゃ甲高い悲鳴が何度も聞こえて―あとで聞いたところじゃそれはタチの悪い酔っ払いが近くの大橋の下で全裸になって叫んでいたらしいよ、なんでも「肌の隅々まで本に棲む白い虫が這いずり回ってる」って言ってたとか―警察もあれこれ疑って、そいつは丸一日拘束されたそうだ、結局のところ「酔ってる」って以外どんなことも判らなかったらしいけどね―そんなことはどうでもいい…実際のところ、俺は衝撃で一度完全に気を失ったのさ、その間なんだかよく判らない夢を見ていた、難しい数式と古典文学が蛇の交尾みたいに絡み合ってのた打ち回っていた、それはそんな風にしか表現しようのないものだった、血の臭いがして…あるいはそれは現実に俺の顔を汚していたものの臭いだったのかもしれないけれど、それは俺にある種の「停止」を予感させた、「死」ではなく「停止」だ―機械油が漏れるみたいな、そんな印象があったのかもしれないな、それに、実際のところ、それはまさしく停止と呼ぶにふさわしい状態ではあったわけだ―感覚的にね…そして俺は見たことのない生き物の死骸を数えていた、それはどれもこれも激しく損傷していて、いったいどの個体がそいつの正しい形なのか、それすらも判らなかった、「判らないものを数えている」と俺は認識していた、それは、とても恐ろしい認識だったと言わざるを得ない、それは実際、とても恐ろしい認識としか呼びようのないものだったよ、俺は判らないまま数えていた、あまりよく覚えていないけれど、全部で三百近くはあったんじゃなかっただろうか、それが終わるとだだっ広い体育館に居た、どこが入り口なのかも判らないくらい大きかった、早朝のような冷たさと薄明るさ、それからもやのようなもので充満していた、もやのせいかどこか、山の中にある建物を連想させた…小学生のころ、そんな建物に何度か泊ったことがある、そんな記憶のせいだったのかもしれない、そこで俺はボードゲームのコマみたいにこつんと突っ立っていた、動けるのか動けないのかも釈然としなかった、でも眉ひとつ動かさずにじっとしていた、それはある意味で、姿形すら判らない生き物の死骸を数えていることと同じだった、ただ見た目にはまるで違うことをしているみたいに見えるだけで―その中ではどんな出来事も起こらなかった、真っ白い闇の向こうから誰かが俺を殺そうと目論んでやってきたり、あるいは亡霊が現れたり…美しい女が現れて俺を愛撫したりとか、そういったことはまるでなかった、だから俺はいつまでもそこでこつんと突っ立っていた、それは先に予感した「停止」という状態だった、今思えば、まさにね…そんな自分のことを何時間か眺め続けたあと、病院で目を覚ましたんだ、すべての治療が終わっていて、あとは俺が目を覚ますだけという状態だった、俺はいくつものビニールのカーテンに覆われた部屋の中で、無理矢理に酸素を送り込まれながら瞬きをした、そう、それもある意味で「停止」だった、なあ、そう考えると「停止」なんて言葉は便利だけど味気ないな―その時は近くに誰も居なかった、だから誰も俺に気づかなかった、俺はもう一度眠った、下手な映画監督がヌーベルバーグを気取ったみたいな、不可解な断片が短いカットでインしたりアウトしたりする夢を見て何度も目覚めたり眠ったりした、ほら、音はするけど回転はしないエンジンみたいな感じさ―あんな風にしばらくの間グズっていたんだ、それでもなんとか回復することが出来た、そうすると今度はちがう病室に移された、檻のある、検査や治療のあまりない病棟さ、そこがどんなところかもっと詳しく説明することは出来るけれど、それ、あんまりやりたくないんだよな…まあでも、だいたい判るだろ、なんとなくな―そこではいろんな人間がいろんなやり方で停止していた、それは俺のようにある程度の段階を踏んで止まったものではなく、ある日突然に止まったりしたもののようだった、時にはそこからさらに絶対的な停止の中に行くものも居た、彼らの誰かが不調になって枯れた木のように床に倒れるとき、俺はそれで自分の命が儲かったみたいなそんな印象を持ったものだった、それがどうしてそうなのかなんて説明は出来ないよ―俺の居た部屋にはとても大きく、開かず、割れない窓があったけれど、そのすぐそばに覗いている鮮やかな緑色の木の葉は、どんな薄暗い雨の日でもまるで太陽を浴びているみたいに輝いていたものさ―なぁ、今日俺の住んでいる街では雪が降った、積もるような雪でもなかったけれど…よく判らないけれど、その時思い出したのさ、あの時のこめかみの疼きや、あの時見た夢のずっしりとした質感、あの時停止したいくつかの俺…雪は目を凝らさないと気づけないくらい小さな粒で降っていた、俺は落ちてくるそいつらをぼんやりと眺めながら、散弾銃をぶっ放す夢を見ていた。


自由詩 混沌を解いたところで簡単な現象にはならない Copyright ホロウ・シカエルボク 2017-01-15 23:13:47
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