一度脱いで、またはく
由比良 倖

「しー、静かに」
 僕が部屋に入るとたろやんはまだ小説を書いていた。僕がご飯と言うとたろやんはそう言って、いま佳境なんだと呟いた。昨日も一昨日もたろやんはそう言ってご飯を食べなかった。食べないと死ぬよと言うと、食べなくても死なない私はとたろやんは答えた。カタカタカタ、カチ、カシャとたろやんは無心に文字を打ち込んでいる。たろやんの顔が薄くディスプレイに照らされて、口の辺りは暗くなって、生きているのか、死んでるのか。ただ、目だけがきらきら光って、指が素早くキーボードの上を撫でるように動いている。
 僕は諦めて台所に行くと、ふたり分のパスタをもりもり食べた。ニンニク抜きのペペロンチーノにキノコを加えたものだ。たろやんが家にきて、たろやんがしていることと言えば、ああやってずっと小説を書いていることぐらいだ。たまに部屋に入っていくと、ぼーっとしているときがあって、部屋は真っ暗だからたろやんは見えないのだけれど、たろやんの湿った匂いがして僕は秘かにそれを吸い込んでたろやんたろやんと言う。たろやんは電気を付けるとすごく怒るから、僕は廊下の光で部屋の中が浮き上がってくるようになるまでしばらく目を瞑る。たろやんは机に俯せていて、「えんぴつ」と言う。
「え」
「鉛筆のにおいがして、びっくりして起きたら机の上に鉛筆があって、私、びっくりしてしまって、それ、捨てちゃった。ごめんね」
 僕は台所の天井をぼんやりと眺める。何日寝てないか数えようとした。朝、と、夜、を何度繰り返して…と考えていると、朝と夜が、太陽と、月が、地球の周りをぐるぐるぐると回り出して、僕はそう言えばこれは夢で、だから僕は寝ていて、だから考えなくて良くて、あっちの部屋にはたろやんがいて、と考えると安心した。カレンダーの上の猫が昨日とは逆位置にいたような気がした。ベランダに出て煙草を吸った。たろやんが来たとき、たろやんは煙草をたくさん持ってきていて、でも僕はたろやんが煙草をものすごく嫌いなことを知っていたから、驚いて、たろやんが、家に住まわせて欲しいの、というから納得して、え、いつまでと聞くと、死ぬまで、と言うので、どうぞ、と入れてあげると、部屋はある?、というので、僕の部屋をあげる、と答えた。それから僕とたろやんは僕の部屋にあったものをほとんど外に出し、机とベッドだけを残した。そういう訳で僕には寝る場所が無くなって、台所の床で寝ようとしたけれど、何となく布団を敷く気になれず、夜中中テーブルの前でぼんやりしていた。まだ読んでない本が何冊かあったので、それを読みながら気を失ったりした。
 たろやんが家に来てから何日かして、僕が外から帰ってくるとたろやんはいなかった。ベッドは綺麗に整えられていて、クローゼットの中にはたろやんの服が何着か丁寧に折りたたまれて入れられていて、机の上は、文字通りぴかぴかだった。僕は、ぞうきんと、洗剤を持って、机の上を磨き上げるたろやんを想像した。たろやんはとても真剣な目付きで、端の方から、四角く、拭いていくのだ。浴室を開けるとまだ湿っぽかった。それで僕は、シャワーを浴びた。僕はたろやんは小説を完成させたのだろうかと思った。パソコンはどこにやったのだろう。それにしても僕はたろやんが部屋を綺麗に使ってくれるので嬉しかった。体を拭いて、髪を乾かしているとたろやんが帰ってきた。僕がおかえりと言うと、たろやんは泣いていた。そして部屋にひとりで入っていった。

 しめじご飯を炊いていた。ふたり分食べることも全然苦痛で無くなってきた。たろやんは夜中に僕が原稿用紙に何かを書いたりしていると、そぅっとドアを開けて出てきて、冷蔵庫からチーズを出して、それを小さく切って、ほんの少しだけ食べる。いとおしそうにゆっくり噛んで、下を向いて飲み込むと、包丁とお皿を洗って、必ず歯を磨く。たろやんは僕の歯ブラシを使うので抗議すると、「だってあなたは、虫歯がないし、歯ブラシを、綺麗に使うから」と言うので、僕は歯ブラシを綺麗に使うことにした。僕の部屋のパソコンが無くなった二日後、僕の住所に住むジョン・スミス氏宛に小包が届いた。配達夫は、いたずらだと思いますがねえ、という顔をしていた。人違いです、と僕が突き返そうとすると、たろやんが真っ白なロングカーディガンにしわ一つ無い細身の黒いジーンズという出で立ちで出てきて、「このひと、ジョン・スミスさん」と言って、僕を指さした。じゃ、サイン、と配達夫のお兄さんが言ったので、僕はJon Smissと書いた。変わった名前ですねえ、と彼は言って、たろやんはくすくす笑っていた。たろやんは小包を乱暴に破り始めた。かと思うと、破った紙を畳んで、ゴミ袋の底に、上手く折り重なるように置いていった。
「ねえ、ジョン」
「なあに」
「この間はパソコン壊してごめんなさい」
「いいよ。僕も使ってなかったし、たろやんに使ってもらえて嬉しかったよ」
 それで、たろやんはその日届いたパソコンを使って、また小説を書き始めた。たろやんは、新しくなって書くのが早くなった、と言っていた。僕は喜んでパソコンの代金を払った。学校が忙しくなったので、たろやんの叩く軽快なキーボードの音を長く聞けなくて寂しくなった。家に帰ってきても寂しくて、寂しい寂しいと言いながら布団を敷いた。
 起きるとたろやんがテーブルの前にいて、僕が目をごしごししていると、弓形の眉をくいと上げた。そして「しめじご飯を食べたかったから私はあなたが起きるのを待っていたんだ」と自動再生みたいに澄んだ声で言った。僕は「僕は煙草が吸いたい」と言った。それから起き上がって、きっちりご飯を分け合って食べた。みそ汁を作っていなかったので、インスタントのとうふみそ汁を入れた。たろやんはゆっくりと、箸の先の方だけ使うようにして食べた。
「小説は、どう?」
「もう少しで、佳境」
「よかったね」
 それからたろやんは、部屋の中をぐるりと見回して、「随分すっきりしたね」と言った。
「パソコンを買うのにお金が要ってね。売れるものは売ったんだ」
「そう。とてもすっきりしたね」
「うん。おかげさまでね」
「ありがとう。のしや君」
 のしやというのは、僕の部屋の前に張ってある表札だ。それで僕は、のしや君になった。


散文(批評随筆小説等) 一度脱いで、またはく Copyright 由比良 倖 2016-12-17 08:43:15
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