インフルエンザに罹る
ららばい

 数年ぶりに泥のように寝た。幼い頃はよく熱を出した。その度に母にせがんで何度も熱を測った。私は体温計が好きだった。ガラス製で冷やりとしていて、何よりも、中に収まっている銀色の液体はとても美しく危なげで魅力的だった。母はそれは水銀だから毒なのだ、下手したら死んでしまうのだ、と言った。綺麗なのに毒だなんて、それは寧ろ世の常ではあるのだが、幼い私にとってはそれこそ相反する感じがして興奮した。それからは熱を測る度に、熱が上がり切って銀色の液体が体温計の外に飛び出してしまわないかとぞくぞくとした。
 
 あの日、父は私が眠った頃を見計らって私の額に手を当てに来た。父の手はかさついていて、しかし柔らかく冷えていて、私の熱っぽさを心地よく解かした。私は背筋がくすぐったくなり、目を開けてしまいそうになるのを必死に堪えた。父が去った後、私はこっそりと体温計を取り出して熱を測った。私の幽かな不安と淡い期待とは裏腹に、いつものごとく熱が上がり切ることはなかった。安堵と落胆がない交ぜになりながら、私は体温計を振った。すると、どこかにぶつけてしまったのだろうか、こつんという乾いた音とともに体温計に亀裂が入り、瞬く間にどろりとした銀色の液体が畳上に零れ落ちた。収まりどころを失ったそれは、畳上で伸びてしまうことも、内に染み入ってしまうこともなく、ころんとした粒状になって転がっていた。私はそれをまじまじと眺めた。そして、ゆっくりと、しかし躊躇うことなく手を伸ばした。指先で触れてみると途端に液体になり、摘むことが困難だった。やっと私の手の平に乗ったそれは、収まりどころがなくなってもなお、ただ丸く凛としてそこにあった。私は唐突にそれを口に含んでしまいたい思いに駆られた。母の 毒 や 死 という言葉が頭にこだました。しかし、それよりも、目の前の美しく危なげなものをただ一心に口に含んでしまいたかった。
 
 両親の寝室はひっそりと静まり返っている。私は、熱の欠片が散らばった焦点の合わない頭で必死に考えた。直ちに部屋の扉を開けられ、何をしているのかと叱責されてしまわないと、いや、だったら直ちにこのまま口に含んでしまわないと。禁止とそれに勝りそうな誘惑、生と死の欲求の狭間で、幼い私は、隙間から朝日が少しずつ差し入ってくることにも気づかず、どうしようもなく途方に暮れたまま手の平のそれを眺め続けていた。




散文(批評随筆小説等) インフルエンザに罹る Copyright ららばい 2016-12-12 22:30:53
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