藝術としての詩
天才詩人

その町に着くとAと俺は新築の高層アパートの7階に部屋を借りて住みはじめた。8月。青い空にはツイストロールの形をした雲がいくつも浮かんでいた。共同生活はうまくいかなかった。食事や音楽の好みの違い、お互いの交友関係など、ちょっとしたことで言い争いになり、Aは自室に閉じこもった。そんなとき俺はよくひとり外にでて、緑の山塊のカーブした二車線の道路沿いにある近未来的なショッピングモールのテラスや、高架鉄道のターミナル周辺に広がる通りを、オフィスや喫茶店のネオンサインを眺めながらぼんやり歩いた。歩きながら、俺はAと携帯電話のテキストメッセージで頻繁にやりとりをした。携帯画面のむこうのAは驚くほど素直で、いつも「許して」「私はいまの自分が嫌いで、なんとかしてもっと心の広い人間になりたいの」と言い、自分の非を詫びた。

ある夜遅く、俺はその町のアメリカス通り(Av.Las Américas)という名前の幹線道路を貫く新交通システムの連接バスに乗って、Aの家族が住む家にむかっていた。バスは町はずれの更地にある巨大なロータリーで進路を変え、空港建設をめぐって住民の反対運動が続くセメント造りの低い住宅が集まる路地にさしかかる。俺は、夜のラッシュで座席がほとんど埋まるバスのなかで光の乏しい外の闇をながめながら、もう何十年も前に頭に浮かんだ、、[夢のようなケーブル]を敷設する計画を思い出していた。その日の深夜、雲が低くたれこめたコンクリートの住宅の小さなリビングのテーブルで、俺はその街区の詳細な地図を紙に書いていた。ほんの20年 ほど前、90年代の終わりだった。俺は写真やテクスト、絵画といったあまたの表現ジャンルの壁を突破し、そのむこうにある 「生」の 現実をエンコード(encode)する、あらたな藝術メディアについての決定的な啓示を得た。

そのころ俺は医者からパニック発作だと診断された。 昼間、ブラインドを下ろしたアパートの小さな部屋を避け、丸太町通りの用水路や行き止まりの道路がつづく一画を歩き、日が暮れるとDVDや書籍を売るディスカウントショップのゲートをくぐった。深夜、近くの家電量販店のストレージに投棄された石油ファンヒーターの電源を入れた。立ちのぼる油膜が空気を覆っていく部屋で、丸いテーブルの上に光沢のある写真雑誌のイメージをならべ、そのひとつひとつを詳細に検討した。目に映っていたのは湿気が充填された熱帯雨林の、小さな高床の家屋で裸の子供たちが輪を描いて遊びまわる映像や、不整合につぎはぎされたアスファルトの道路に横づけされたダイハツ製のバスがラッシュの乗客を拾う、産油地帯の大都市の夕暮だった。あの日から俺は少しずつ、ランプウェイや空き地にかこまれたグーグルマップに載らない路地をつなぐ、夢のようなケーブルを敷設する計画について考えていた。いや、それは偏在する集合意識に焦点をあてた、旅と日常の境界を超えすべての開発未定地に生を受けた人々が参加する、終わりのないアート・イベントだと言えるかもしれない。

「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘の上に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字形に急カーブする道路が続き、町の大部分の緑の木々におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会 - exposición- というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。


自由詩 藝術としての詩 Copyright 天才詩人 2016-07-18 07:58:44
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