過去を捨てた男
葉leaf

男はマッチを取り出すと、きれいに粉末にした。そのうえでタバコを幾本も取り出し、小さな城を作った。男は衝動を失っていた、ただ衝動になり損ねた液体が際限なく湧き上がってきて、涙腺からあふれて仕方がなかった。男は泣いてはいなかった、例えばコンピューターのディスプレイの点滅、交差点の忙しない交通、大学の某教授の講義、世の中のあらゆるものが涙となって男を経由して大地へと滴るのだった。

男は過去を捨てていた。過去には針でできた栄光があり、綿でできた受難があった。人生が自らにスティグマを科すことから男は逃れたいと思った。例えば組織による人権蹂躙、社会からの迫害、男は侵害された権利を主張することができたし、社会に対して被害を訴えることもできた。だが、男はすべてを包括した森のようにただ茂っていればよかった。過去は森の奥処にばらまかれもはや原形をとどめない地衣類の類、赦すのでも諦めるのでもない、ただ捨てるのだった。

過去を捨てた男は津波被災地で復旧のための工事をしている。空間放射線量の高い地域にも何度も赴いた。作業着には未来の汚れがすでに描かれている。重機は自らの理性に反射するように俊敏に動いた。厳しい肉体労働は日々を刻み夜々を貫く真っ赤な剣のようなものだった。男はよく海を眺めた。海の核心のようなものを手に握っては取りこぼしていった。仲間には津波で家族を失った者や避難経験者が何人もいる。男は自らの過去を捨てた代償として、膨大な数の他人の過去を引き受けた。

仲間たちと温泉に入って汗を流しながら、過去を捨てた男はときおり自分が何者か分からなくなる。自分が何をしているのか分からなくなる。肉体労働者が災害復旧をしているのではない。炎のように荒れ狂う孤独が一切を燃やし尽くして、残るのはただ青空に証明された眼球の凝集のみ。他人を勇気づけたり他人を代弁することなどできない。ただこの孤独の原野に他人の過去、災害の歴史を丁寧に積み上げ、自らの眼球をくまなく投射するのみだ。


自由詩 過去を捨てた男 Copyright 葉leaf 2016-06-18 10:39:29
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