読めないときも焦らずに
木葉 揺

今回は読む話ではありません。申し訳ない。
最近、調子が悪い。活字が読めない。。。自分の中の課題図書に手を付けれない状態です。
現代詩フォーラムのお気に入りも「new!」だらけ。精神的なものだから、「活字を見る」のが苦痛。ひどいときは「本を開く」ことを考えただけで苦痛です。料理もしてません。「キッチンに立つ」「野菜を切る」とか頭に浮かぶだけで辛い。実際は作業に入り始めれば、無心に手を動かすので精神的には良いと知っているのです。
 もともと好きでないこと、得意でないこと、というのが共通してるかもしれません。
で、書くことはできるのです。もちろん、良い作品が書けるわけじゃありません。
 日常の感情表現が苦手な私にとって、「書く」とは良い作業のようです。会話などでは相手に合わせすぎ、相手に圧倒されすぎる傾向があるので、ストレスを溜めやすいです。
友達との会話で「言われ負け」という言葉が飛び出てから、好んで使ってますが、「言われ負け」はよくあります。
 つまり、会話の相手にダメージを受けるようなことを言われても、相手に合わせてしまう。内心「クッソー!」と思える時は大丈夫です。認知できてる。たいていは「あ、私が間違ってるのね?」と相手を信じてしまうので、たとえ相手が気軽に言った言葉だとしても、しっかり受けてしまいます。ところが「相手に合わせる」「言ってることを信じる」クセがあるので「ああ、そうね」と笑っていることが多いです。自分でダメージを受けていることに気づいていない。そういう説明だと「いいじゃん、強いじゃん、天然じゃん」と言われそうです。が、「気づいていない」と「ダメージを受けていない」は違います。
自分のダメージを認知できていないと、ストレスは蓄積します。だいぶ時間が経ってから、一人になってから一気にやってきて、わけのわからぬフラストレーションに襲われます。しばらくして「あ、あのとき言われたことなんだ」「あ、私はダメージを受けてたんだ」
と気づきます。でももう相手はいないのでどうにもなりません。おまけに「結局、合わせた自分が悪い」または「あの人のいうことは正しい」ということになって、二重三重のストレスになります。
 そういうときは、誰かに話をきいてもらいます。ただわけもわからず話してるうちに、元となる出来事が口からこぼれます。そこで話を聞いてくれている人が共感してくれたり、私の代わりに当時の会話の相手を責めてくれることで、やっと救われ、ラクになります。よくわからないけど、時にダメージを受けた相手を自分が責めるのは、なぜか私の中にタブーのようにのしかかります。責める時もかばいながら責めたり、なんかそれは揺るがないポリシーのようです。精神科医にひどいこと言われて悪化しても、「あの日病院が混んでて、先生余裕なかったんだなぁ」と思ってしまう始末。結局当事派遣で勤めてた会社の健康管理室の臨床心理士さんに「お医者さんひどいこと言ったね」と言ってもらって「ワーン!」と泣いて救われました。さずがプロ。たとえマニュアル通りでも良いのだ。
「話を聞いてくれる人」「味方をしてくれる人」というのは、私とって神さまのようです。わからないなにかを吐き出させてくれる人は、とても聞き上手で「アドバイス」より「共感」をしてくれます。 なので時にわけのわからぬフラストレーション系の犯罪が起きると胸が痛みます。日常で、吐き出させてくれる人を見つけることができなかった人ではないか、と自分とどうしても重なってしまいます。めったに怒らぬ私が怒る時って、大胆な行動をとったりするので、自分をコントロールできていないのです。キレるタイプかもしれない。。。
 で、ずいぶん話が飛んでしまいましたが「書く」という行為は非常に効果的です。聞いてもらえる人がいないとき、誰にも話せないときなど、感情表現の下手な人間には救いです。と、いうのは詩を書かれる皆さんは、「もの書き気質」なので、分かる方も多いでしょう。
 たぶん、怒ることも泣くことも、人を悪く言うことも、人に鋭い言葉を投げることも、無意識にタブーになっている人は、書き出すと「自分とは思えない激しい、攻撃的な言葉」ときには「凶悪な言葉」が飛び出してビックリしたなんて経験もあるかもしれませんね。そこで客観的になって「恥ずかしい〜」なんて思えたらいいんです。可哀想だけど、紙とペン、文字が聞いてくれる人同様「受けてくれている」のです。そして、書いたものを見てる自分も「受けてくれる人」になれてます。
書いてスッキリ!もありますが、スッキリしない場合もあります。そんなとき「偶然出た美しい(と思いこんでる)言葉」を気に入って酔っちゃえたら大丈夫。犯罪者にはならない(笑)だって書いた言葉で酔って良い気分になれるなんて、楽しい世界を見つけたもんだ!
 それを「詩」と呼ぶがどうかは問題であるところです。「詩」と呼ぶなら、「絵」と同様、「癒し効果がある」と世間には宣伝できます(笑)ただ「作品」ではないと思います。それでも幼児であれば、「作品」と評価することで才能を伸ばすかもしれません。そんな子は向上心があれば、いつのまにか「何が作品なのか」とか学んでいくでしょう。
 私も基本的には「書き殴り」は「詩」とは違うと思っています。「詩とは何か」がわかっていない私にとっても、そこはなんとなく。でもどうしても「詩じゃない」と言えないのは、「書き殴り」の方が需要が多いから(爆)感情表現の上手でない人間が多いんだと思います。絵を描いて癒されるように、文字を書いて癒される人が「詩」だと思ってるんじゃいいじゃない。書くことに執着ない人が「詩」だと思ってることも多いわけです。
 ただ問題なのは、「もともとある文芸での詩の世界とどう接するか?」です。そこには
頑として動かないものがあるんですから認めないわけにはいかない。ちゃんとした地盤のある世界です。
 「詩で有名になりたーい」「詩で名前を残したい」うん!最もだ。気持ちはわかる。でも、それには「詩の世界が今どうなっているか」客観視できたり観察したりする力が必要です。
ひらめいた言葉だけじゃどうにもなんない世界です。だって、どうにもなるんだったら、どうにもなる人物が山のようにいて、その時点で有名になることは無理ですよね?
それでは!どうすればいいか。。。むふふ、わかりますかな?
私個人は。。。正直、こんな調子じゃ身が持たない。とりあえず、あのう、生活リズムを整えるのが目標です。そういう目の前のことしか考えない。詩に関してだって、大きな目標描いて努力するとつぶれる必ずつぶれる人間なので、自分に期待しない。まず人並みの生活を送りたい。キチンとご飯食べて眠ろう。家事もできる範囲でしよう。目標一日、一つか二つ。旦那さんを笑わそう。調子が悪かったら一日寝てる自分を責めないでいよう。書き殴って楽になるなら書き殴れば良い。まず、そんだけ。最初に言ってた料理も、「ゴハンを作る」という最終目標をやめて、あとで楽するために「白菜洗おう」だけにすると、いつのまにか切ってる、あれ?煮てる!なんてこともありました。本当に洗うだけで終わることもあるし、それはそれで役に立つんですよ。
 ただ書き殴りの中に、詩の素材があるかもしれない。やや元気になったら、そんなかから拾ってきて、詩になる方法を考えて作ってみる。それも楽しみの一つ程度。そう、楽しいがどうかがポイントかなぁ〜私には。詩を書く作業より、「どうやったら詩になるんだろう?」と試行錯誤してる方が楽しいのかもしれない。だから楽しくなくなったらやめる。
のはず。まだ詩に支配されている人生ではない!
 おお〜、そう言って書いてるうちに元気になってきましたよ〜。エッセイは別の疲れがでますが、今日は自由に書いたから、なんかラクになれました。皆さんありがとう〜。
そんで、頭と心が軽くなってきたので、今から「読み返す作業」に入りまーす。一応、読んでもらうために。。。書いた文章見る余裕だけはでてきたな(苦笑)


散文(批評随筆小説等) 読めないときも焦らずに Copyright 木葉 揺 2005-02-25 13:52:33
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