語る資格
葉leaf
震災時、私が沈黙した一番の理由は、自分に語る資格があるのか、という疑問だった。勿論それだけの理由ではないが、大した被害も受けていない自分が震災について語ってしまうことについて私はきわめて懐疑的だった。私は安っぽい震災詩が大量生産されてしまうことより、何よりも語る資格のない人間が安易に語ってしまっている資格違反の方が問題だと思っていた。これは詩を書くものの倫理に関わる問題である。
だが、事件の当事者のみがその事件について語れると考えるのは、一種の実在論であり、詩の虚構性とは相容れないのではないだろうか。事件について真実を語れるのはそれをより深く実際に体験した者のみであって、当事者でない人間は真実にうまく近接できない。表現というものが真実を語るのだったら、表現すべきなのはあくまで深刻な当事者のみである、私はそう考えていたのだったが、そこに私の勘違いがあったと思う。
詩はフィクションであって一向にかまわない。なにも震災の実体験を語るノンフィクションである必要はないのである。深刻な体験をしていなくて真実に迫れていない人間であっても、体験とは別の次元から収集した様々な情報をもとに、フィクションとして震災を題材にできる。そのことに何ら問題はないのではないか。逆に言えば、震災の当事者でないからこそ語れる真実というものもあるのだ。私は惨劇の当事者であるという地位を特権化してしまっていた。だが、詩のフィールドというものは誰にも特権がないフィールドであり、あらゆる虚構が許されるのである。その虚構の一端として震災が扱われても何ら不自然ではない。
似たような問題は例えば石原吉郎について語る場合にも生じる。凄惨なシベリア抑留体験を経ながら、その当事者でありつつ沈黙の方へ傾いたこと。当事者であり最も細密に語れるはずの人間が、抽象的・比喩的な表現に終始したこと。そのことによって、むしろ部外者はシベリア抑留について表現しづらくなってしまっている。語るべき人間が沈黙している以上、大して語るべきでない人間が何を語れるか。だがこれこそ上述した実在論の誤謬なのだ。詩はフィクションでありすべてが相対化されたフィールドであると考えれば、シベリア抑留について最近の若者が作品を書いても一向に差し支えない。むしろ、実体験とは違った、資料収集体験に基づく新たな詩編が生まれていくであろう。実体験や歴史的真実に特権性を与えることには懐疑的であるべきで、詩はもっと自由に書かれるべきだと思う。