花畑(終)
吉岡ペペロ

 途中雨が降ってきた。傘をさすのも買うのもめんどくさくてそのまま歩いた。
 昭和通りの路地に店を探した。
 愛する男を独り占めしたくて、痴情の果てに男の性器を切り落とした女は、六十を過ぎてなお妖艶であるらしかった。
 うろついているとなんだか欲情してきた。店はなかなか見つからなかった。迷ってなんどか覗いた路地に店はあった。
 ガラッと開けてのれんをくぐると、カウンターと、土間にテーブルがひとつだけあるちいさな店だった。二人連れの客が二組いた。
「お兄さん、雨のなか、よく来てくれたねえ、こっちにおいでよ」
 促されるままぼくはカウンターに座った。
 阿部定と思われる老婆がタオルをくれた。「おかえり」と、ささやかれたような気がした。
 ぼくは阿部定についでもらったビールを飲みながら店をぼんやりと眺めた。
 清潔な店だ。凄惨な阿部定事件からは想像もつかない店だった。
 阿部定は和服がよく似合っていた。襟元をくつろがせて痩せた胸元を広くみせていた。としを考えると少しはしたないようにも思えた。
 ついでくれると指先がぼくの目の前にきた。六十代の指ではなかった。若かったのだ。こんな手で触られたら即発射だ。
 カウンターの一組が店を出ると、
「お兄さん、こっち使えよ」
 振り向くと土間の背広姿の男ふたりがこっちにおいでおいでをしていた。
 ぼくが土間にあがると、
「しばらくここで飲んでな」そう言ってふたりはカウンターに行ってしまった。
 カウンターではひとりの男が明らかに阿部定を口説いていた。
 もう四年も通っているだとか、もう三十年になるじゃないかとか、挙げ句は貸した金の話だとかを延々と話していた。
 阿部定がさびしそうな目をしてうなだれている。ぼくは老婆のその姿に素直なものを感じた。
 大人に怒られているような、それでも謝ることをこらえているような、矛盾しているかも知れないけれど、邪気のないつぶらなものを感じていた。
「こいつから聞いて心配してんだよ、定さん、あんた、死にたい、死にたい、って客にこぼしてるそうじゃねえか」
 阿部定の面長な顔が歪んだ。
「おっさん、しつこいんじゃねえか」ドスのきいた声をぼくは発していた。
「あん?」
 口説いてないほうの男がぼくをにらんだ。
「あんじゃねえよ、しつこいんだよ」
「なんだてめえ、いちげんの客だろ、入ってくんじゃねえよ」
 ぼくは土間のテーブルを飛び出していた。男と揉みあって狭い店内を転げた。転げながら思いっきり男に蹴りを入れた。それから立ち上がり口説いていた男にも蹴りを入れたときだった。
 空振りして足がカウンターにぶつかって、ぼくの右股関節あたりにビクビクビクと肉がふるえるような音が鳴った。
 激痛で右足が動かせなくなった。男ふたりは、お決まりみたいな悪態をついて出ていった。
 阿部定がカウンターから出てきた。
「悪いねえ、若いひとにくだらないものみせちゃって」
 そう言って、ぼくを土間に座らせようとした。
 座ろうとすると右股関節に激痛が走った。ぼくは阿部定に断ってカウンターのイスに軽く腰かけた。どうしたら痛みを感じずに座れるだろうかとしばらく探った。
 結局カウンターに背を向けて足を投げることにした。その横に阿部定が座った。阿部定もぼくもしばらく黙っていた。阿部定がぼくの太ももに手をのせて立ち上がりのれんをしまいに表に出た。
 どこからかハーモニカの音がした。ぼくの横に急いで座りなおして阿部定もその音色を聞いていた。
「なんだかさびしい音色よねえ」
 近くの長屋に住む子どもが練習しているのだという。
「どっち? 痛いのはどこ?」
 阿部定が熱燗を用意しながら聞いてきた。
「暖めちゃえば治るわよ」
 お猪口に酌をされて、ぼくと阿部定はカウンターを背にして飲んだ。痛いこともあって話すこともなくて、はやい勢いで酌をうけていった。
「なんだかブランコみたいですね」
 ぼくが左足首だけふらふらさせてそう言うと、うまいこと言うわねえという感じで阿部定が太ももにのせた手を動かしてきた。
「二階に上がれる? 上がってきなさいよ」
「そんな」
 阿部定にさそわれて自分がなにをやっているのかはっきりと気がついた。
 子どもが泣いたあとの目をした六十過ぎの老婆を見つめた。酔いつぶれてしまえと思った。二階に上がってはならない。
 阿部定の酌が冷や酒をついでいた。身体をまわすと痛みが走るのでぼくはお酌をしなかった。
 股間がかたくなっていた。阿部定の若い手がもうそこにちろちろ触れていた。
 腰をずらそうとしたか、性的刺激だったか、イスからお尻が落ちかけて、それを踏ん張ると右股関節にまた激痛が走った。痛みがおさまらなくてぼくはうずくまるようだった。
「寝ておいきよ、横になるがいいよ」
 それしかないような痛みだった。

 阿部定が布団を敷くあいだぼくは立っていた。立っているのが一番楽だ。さっき階段をあがったとき、真っ直ぐ進むことは出来た。
 お店もそうだったが二階も清潔にしていた。ちいさな机のうえに便箋が丁寧に置かれていた。鉛筆削りのカッターナイフがその脇に添えられていた。刃をしまう緑色した柄が宝石のようにひかって見えた。
 ぼくは背の低い箪笥に腰かけていた。阿部定が敷布を音を立てながら整えていく。
「お兄さん、なにやってるひとだい」
「理髪をやってます」
「理髪かい、ハサミで切ってるんだ」
 阿部定がにたっと笑った。
 上目遣いの阿部定の乳房が見えた。かくれていた真珠の首飾りが胸からこぼれていた。阿部定はぼくの目を見逃さなかった。
「これかい、あたいは金属めっきアレルギーなのさ、真珠とおちんちん以外、かゆくていけないよ」
 ぼくは殺されると思った。理由などない。ハーモニカの音色が濃くなった。懐かしい曲だ。和夫くんと歌ったアマリリスだ。
 ぼくは急にお腹が痛くなった。
「トイレ借りていいですか」
「できるのかい」
「できます」
 ぼくはゆっくりと階段をおりた。うえから、「お兄さん、わかるかあい」と声がした。
 ぼくはトイレに入りズボンをおろした。そして、
「うおおおお」
 と雄叫びをあげながら便器に屈んだ。心臓がおかしくなるような激痛だった。小窓からアマリリスのハーモニカが、さっきよりもしっかりと聞こえた。
 ちんちんの先が冷やっとして触ると濡れていた。お腹が痛い。股関節も痛い。
 和夫くん、和夫くん、ぼくは和夫くんにすがるように祈った。涙が出ていた。痛みでからだがガクガクしていた。
 ぼくの頭につらぬくものがあった。
 和夫くんはいつもこんな思いをしていたのだ。トイレも、教室で座っているときも、足を投げ出して正座していたときも、ぼくとの帰り道も、あの大きな病院に入院していたときも、妹さんたちを守っていたときも、こんな痛みのなかにいたのだ。
 ぼくは流れてくるアマリリスの音色に合わせて歌おうとした。けれど、歌詞が思い出せない。
 ぼくは声を圧し殺して立ち上がった。
 トイレからそっと出てカウンターに指をつきながらすすんで一気に外へ出た。酔いと大便のときのダメージでふらついていた。
 雨があがっている。砂で固められたような路地が月明かりに照らされている。
 ぼくは夜空に月を探した。それだけで痛みが走って思わず股関節をおさえた。
 ぼくは大通りのほうではなくて路地の奥にすすんでいった。ちょっとでも身体をひねると股関節に激痛が走った。
 ぼくのなかに、和夫くんが降りてきていた。和夫くん、いたんだね、涙があふれてきた。
 春の夜風がからだを冷やしていく。足を擦る音が自分のものではないようだ。
 まっすぐ歩くだけなら痛みに耐えられるようだった。大丈夫だよ、和夫くん。
 あのままあそこにいたら、ぼくはどうなっていただろう。初めて会う男を部屋にあげる阿部定という女からぼくは逃げたのだ。逃げてばっかりのぼくを和夫くんが助けてくれた。
 それよりもぼくを強くとらえていたのは、和夫くんの痛みを自分のからだの一部として感じたことだった。和夫くんはこんな痛みのなかを生きていたのだ。
「バンザーイ、和夫くん、バンザーイ」
 ぼくは顔をぐしゃぐしゃにさせて嗚咽していた。
 水溜まりに月が映っていた。犬の遠吠えがひとつ聞こえて、それっきり町が静かになった。ぼくの嗚咽と足を擦る音だけになっていた。
 阿部定はトイレから戻って来ないぼくをまだ待っているのだろうか。そんなことはどうでもよかった。
 ぼくは和夫くんに話し掛けていた。
「あのときはごめんね、あのときはごめんね、ほんとうに、ごめんね、和夫くんはすごいよ、ほんとうにすごいよ、和夫くんのお寺は復活したんだよ、和夫くんバンザイだよ、和夫くんはバンザイだよ、和夫くんバンザーイ、和夫くんバンザーイ」
 涙でにじんで外灯のひかりがたくさんに見える。
 三叉路に出た。左右の道のあちこちに水溜まりがあった。そのすべてが月を映している。お花畑みたいだ。
 ぼくは足をとめ、兵隊さんのように足踏みをした。右の股関節に痛みが走る。それでかまわない。和夫くんもずっと痛かったんだから。三叉路の右をえらんで、ぼくは行進するように歩き出した。そしてはっきりと思い出したアマリリスの歌を口ずさんだ。
 師匠にいまから謝りに行こう、そう思った。





自由詩 花畑(終) Copyright 吉岡ペペロ 2016-04-18 22:59:56
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