沈丁花3
吉岡ペペロ

 まだすこし早いが会社に出掛けることにした。
 ほんとうは繁治も裕子ちゃんを追いかけたのかも知れない。しかし道中にふたりの姿はなかった。
 ひと駅まえで降りて会社まで歩くことにした。
 あした姉が帰ってくる。その嘘は自分にしか効用のない嘘だった。裕子ちゃんの涙の意味が繁治にはわかる。それがほんとうのことなんだと、つきつけられたみじめさに自身が切なくいとおしくなっていた。
 気持ちを引きずりながら歩いていた。このあたりはよく通るのだが歩くのは初めてだった。歩道に並ぶひとつひとつの店がもの珍しかった。
 繁治の足がとまった。ガラス越しに動物の足腰のミイラが天井から何体もぶら下がっているのが見えたのだ。思わずガラスに顔を近づけて凝視しているとなかから女が出てきて、
「よかったらご覧になられてください」そう言って繁治を店内に招きいれた。
 店はちいさな美術館のようだった。場所を借りて作品を展示させてもらっているのだという。
 繁治が見た動物の足腰のミイラは錯覚だった。ニスを塗って固めたセーターやマフラーを組み合わせて、そのひとつひとつを天井から吊るしていたのだった。芸術ってこういうことなんだろうか。
「動物のミイラかと思いましたよ」
 繁治がほっとしながら女に言うと、
「そんな感想はじめてです。嬉しいです」本心かどうかは分からないが作者でもある女は喜んだ。
 店を出て繁治はまた歩道を歩いていった。香りがして、昨夜分かった匂いのもとの緑を見つけた。そして何かの匂いに似ているとあらためて思った。
 押し入れの匂いだ。この香りは、姉の匂いだ。
 押し入れのなかで姉はミイラになっていた。姉や義兄との幸福だった日々を思った。末期の癌で姉は柔らかで弱々しいミイラのようだった。死んでしまってからのほうが力強く見えた。死んでからの姉はさっきの芸術作品のようだった。義兄は裕子ちゃんに打ち明けてしまったのだろうか。
 姉ちゃん、ありがとう、姉ちゃん、ありがとう、朝息をしていなかった姉を義兄とふたり夕方まで見つめていた。姉の遺言を見つめているようでもあった。夜会社の車でピックアップした義兄を山におろした。義兄がトランクから寝袋にいれた姉を出してそれを担いだ。繁治もトランクから大きなカボチャを出し後部座席にのせた。町に降りてから繁治は河原にカボチャを捨てた。その間ずっと、姉ちゃん、ありがとう、姉ちゃん、ありがとう、そう唱えていた。翌日、山で義兄を拾い自宅に送り届けた。義兄が車に乗り込んできたとき、ベーコンのような匂いがした。繁治は、義兄があの日姉をどうしたのかを聞いたことがない。姉を久しぶりに見たのは、いまのアパートに引っ越した日だった。姉は黒光りした古木のようだった。その日からまた繁治は、こころのなかの姉と平穏な暮らしをはじめることができるようになった。
 派出所のまえを通ると自分が逮捕されることを想像した。きょういまからする仕事がさいごになるのかも知れない。それがほんとうのことなんだから。
 会社に着くとペアの青山くんが一生懸命洗車している姿が見えた。彼は若いのにいつも職人のように丁寧に洗車してくれる。外も中も完璧だ。綺麗に洗車してくれたお礼と引き継ぎがてら、繁治は青山くんにコーヒーをおごってすこし雑談をした。
「ぼくのおふくろ、こいつのファンやったんですよ」
 青山くんがスポーツ新聞をひろげて、覚醒剤で捕まった元プロ野球選手の顔写真を指でたたいた。
「それなら、お母さんショック受けてただろう?」
「どうなんやろ、もう10年も会うてへんから、分かりませんわ」
 青山くんが小学生のころ、お母さんは離婚していなくなったらしかった。
 繁治はこの青年を励ましたくなった。若いからこれからいろいろあると思うけど個人タクシーを目指せよだとか、そんなこと俺に言われるまでもないかとか。でも繁治は言わなかった。なぜだか裕子ちゃんが泣いていたのが思い出された。青山くんは自分より立派だ。未来がある。 俺が言えることなんかないよな。繁治がかける言葉をつまらせていると、
「あれ沈丁花ですよね。ダッシュボードにあった花びら、シゲさん、お花摘んだんでしょ、笑けますやん」
「あ、ごめん、残ってた?」
「ぼくもあの花好きなんですよ」
「そうか」
 ひょっとして青山くんも死体と暮らしているのかも知れない。いや、そんなことをまだ若い青山くんがするはずがない。
「ぼくも実は、きのうまねしてみたんです」
 青山くんが明るく言って、繁治はすこしうつむいて微笑んだ。うつむいたのは、いました失礼な妄想を反省したからではなかった。裕子ちゃんは青山くんなんかと結婚したらいいのになあ、そんなことを思うのんきな自分への自嘲だった。ほんとうにそうならないか。そうなったら姉もどれだけ安心するだろう。繁治の微笑みがくっきりとした。
「じゃあ、帰ります。お疲れ様でした。ご安全に」
 繁治は微笑んだまま青山くんに手をふった。そして洗車された車に乗り込み仕事に出かけた。




自由詩 沈丁花3 Copyright 吉岡ペペロ 2016-02-26 23:24:49
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