世界
鷲田

私達の目は形の無いものをどれだけ見つめることが出来るだろう。昨日の陽の光の形を、10年前の雨の滴る上空を、過ぎ去った記憶の思い出を。薄ぼんやりとした過去の欠片は、今日の一日をボロボロと噛み砕いている。肯定に辿り着く作業を開始するために、音を立て、破壊している。そうして、噛み砕かれた過去は分解され、四方に散らばる。散らばった断片の思い出は記憶の中で新たな物語を創る。肯定は否定を凌駕しようと立ち向かい、記憶の再構築を行う。ニヒリズムは彼方に逃亡し、幸せを呼び寄せる感情が到来する。ニヒリズムにあるのはennuiな態度だけだ。そして、斜に構える休息の風景だけだ。我に返る時間、否定を否定する強さが片隅に凛と芽生える。それは薄暗い風景に光が差す瞬間。私達は光の申し子になろうと心のどこかで何時も望んでいる。

私達には新たな物語が必要だ。破壊された過去を再構築する未来の物語が。現実の中では、明日も、明後日も、ましてや10年後も、20年後の未来も見ることは出来ない。盲目な私達の目には、見えない景色が多くある。盲目な私達の精神には、見失っている景色が多くある。過去が未来へと繋がる柱のような、それでいて、糸のような、繊細で緻密な力強い一筋の光が私達には必要なのである。

私は思う。人の一生は幻であって、死んでしまえば何も残らず、記憶さえも今日のような青い空の中で掻き消されてしまうことを。物体の消失は精神の消失を意味し、形が無くなれば想像もなくなる。イメージが喪失した世界には色が無く、彩りがない。色を失くした世界、それはもはや世界では無い。なぜなら、世界は色で構成されたcosmoに他ならないからである。色の無い世界に憧れを持つのは、永遠を過信した道下の演出である。何もなく、日々を倒錯して幻想の中を今日も人は歩き続ける。人はその弱さを強さに変える術を身に着け、身を隠し、強さを脚色している。それは人間の傲慢という鈍感な勘違いである。

今日、ここに吹いている風。その風は無色だ。彼等は色を欲しない。だけれども、風は幸福のありかを知っている。本能的に。歴史的に。人類が初めて歩いた時、風は吹いていた。人類が初めて愛しあった時、風は吹いていた。人類が初めて殺しあった時、やはりそこでも風は吹いていた。人類が初めて死んだ時も、風は吹いていたのだろう。私達は風に流され、風の沈黙に自らの運命を委ねている。風の匂いは季節のリズムを、そして、都市の風景を語る。感情の形を、未来の形を、過去の形を、愛おしさの形を、後悔の形を、蒼い空の上空の白い雲の気体に乗せながら。

私達は見えない事象に対して今日もやはり盲目だ。目が可視化出来るのは社会という現実の物体だけである。物体という結論だけである。だから、私達には色が必要なのだ。色と言う物語が必要なのだ。過去の物語が新たな色彩を語る頃、世界は、そして未来はきっと一変しているだろう。それは私の期待であり、その期待を私達は希望と呼ぶ。


自由詩 世界 Copyright 鷲田 2016-02-21 21:23:33
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